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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

生を歩む途の途上で 〜郵便的不安と彩りのファンタジー〜

どのような人生にも、それなりのファンタジー性や非日常感は必要不可欠なんだろう。今、東浩紀さんの本を読んでいるが、みやすけは彼の世界にどっぷりと浸る事で、一体何を得ているのだろうか。果たして、その世界の中でテクストから滲み出る匂いに悦楽を感じる、その事に「意味」があるのなら、みやすけは東浩紀さんの本を読んでいる小一時間の間だけでも、有意義に人生の途に歩を進められているとも感じる。それが例え、彼の意を踏みにじるような卑劣さを伴うとしても。

 

本来人が生きるのは、その行く先の「死」に象徴されているように「有限」であるからこそに、本来の意義があるのだと思う。では、有限である事こそ見出されるべき真実とは何だろうか。人は生きているだけでも、多様な意義意味に支配され、まるで操り人形のように、生から死へと続く本来「直線」を描く筈の途を、曲がりくねって歩んでいる。人というのは、ただ生きる事のみではもはや生きられない。自分の歩むだろう途に少しでも彩りを、それはファンタジーでもぶっ飛んだ非日常でも良い、本来の直線を描く、生まれ落ちたら後はただ堕ちていくだけというような、無味乾燥とした無情なる現実を受け入れられないという悲しい性も、みやすけが彼の本を読み耽るという事だけで、その恐怖は、少しは緩和される訳だ。

 

しかし、生きるというのはそういう事のようにも思える。みやすけが彼の本を読み、例え彼の意に沿う事が仮に達成出来たとしても、そこには、特に価値のあるような「宝物」を手に入れた事にはならないのかもしれない。むしろ、その時間を通して、曲がりなりにも彼のテクストを通して、小一時間の人生の途を歩められた事の方が、ずっと生産的だし、自分に対しての説得性はあるように感じる。他人である筈の東浩紀さんの思考の世界にどっぷり浸る事は、決して超えるべき者とか、彼の世界感を十分に吸収する事の他にも、ただ、彼の「物語り」を通して、ここまで生きてきたという実感を得る事もまた、彼の思想書を読むに当たっての意義があるようにも思えるのだ。

 

そして死が冷たく象徴されるのは、そこに「終焉」があるからだろう。この終焉こそに、人としての生を歩む本来の意義があるのだと思う。しかし、仮に人間の生の途が行く果ての無い前途なのだとすれば、あらゆる意義意味は、平行線が無限遠になれば一点に交わり、謂わば「無意味」になるのと同じように、果て無い人生の途は、あらゆる意義において無意味になってしまうだろう。

それは、有限であるからこそ、そこに何とか意義意味を見出そうとするのを見れば、それは、意味に意味を重ね、意義に意義を見出すような、二次的な再生産の繰り返しのようにも見える。人は、意味の為の意味を重ね、そして意義の為の意義をムリにでも創り出そうとし、歩むべく途に彩りを添えようとする。しかしやがて「意味の為の意味」「意義の為の意義」の再生産によって、本来の生きる目的を見失っているようにも見える。

 

生きるのは、死ぬ為であると、みやすけは感じる。かの古代ギリシアの哲学者ソクラテスは「生きているのは、死ぬまでの暇潰し」と、この前途を形容した。仮に、そこに彩りを染めようとファンタジーを繰り広げもがいても、結局は、死という終焉を迎える為に暇をもてあそぶ、ただそれだけの事を忘れてはいけないのだという事を、その彼は云っているのだろうか。それは虚しくて寂しい、あまりにも生々しい響きのようだ。人が生きている総ての意義意味は、いずれ訪れる強制的な断裂によって寸断される。まるで、鋭利な刃物で頸動脈を切られ、断末魔の叫びを挙げながら這いずり回る鶏のようだ。意義意味を見失い、ただ無意味に直線的に死へと向かう人間は滑稽なのだろうか。生の華々しい途から零れ落ちる大量の死骸、そして、その果てしの無い妄想は、さらに人を意味意義のファンタジーへと逃避させるのだろうか。

 

 

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)