心象風景の窓から

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バラエティ番組化するニュース報道 ~消費されるだけの不幸~

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ほとんどの犯罪というのは、リアルの不幸の成れの果てで起こる事が多いと聞く。つまり新聞の一面や、テレビなどの映像表現では、到底語り尽くせない当事者の苦悩が、当然ある筈なのだ。

 

しかしある視聴者は時にそれを娯楽とし、またあるメディア関係者は時にそれを視聴率の為の成果にしてしまう。このような錯乱した報道の関係のあり方によって、視聴者は何か一つでも、犯罪というリアルを知っただろうか。加害者には、加害者なりの不幸や、やり切れなさがあって、時に止む得ず法を犯す事があるという事は、その筋のジャーナリストが明かす、一つの現実なのだ。また、ある日突然、犯罪に巻き込また、被害者の「その後」もまた一筋縄では行かない、現実の葛藤が続くのだ。この、当事者同士の視えない解決への糸口を、第三者の視点から、可能な限り解き解そうとする試みこそが、視聴者に出来る唯一の祈りなのだと思う。そして、その発端を報道という立場で、一体どれだけの関連の事実を伝える事が可能なのかを吟味する事も、特にメディア関係者には必要だと感じる。しかし全ての事実を伝えるのにも、また別の問題が発生するだろう 。

 

これまでの報道は、このような「リアル」を、真っ向から報道しようと決意した事があっただろうか。テレビ越しでただ視ているだけの視聴者に対して、このような複雑に入り組んだ負の連鎖を、一体どれだけの人達に対して知らせようとし、このどうしようもない悲しみを、気付かせる為の、きっかけを与えたのだろうか。

 

この社会には、様々な不幸がある。にも関わらず、多くのメディアは、その悲しい一面を視聴者には一向に伝えず、こうした不幸を戯画化するのみだ。視聴者という立場は、他所の人間の営みなど何も知らない事が基本である。また、他所の事など、どうでもいいというなスタンスかもしれない。報道に対するあらゆる姿勢がある中で、犯罪という、この不気味に戯画化されたニュースは、視聴者に取って、そこに不可思議と嫌悪しか残らないだろう。もし報道の立場が、可能な限りの事実を追求する意思の上に成立つ事が好ましいのであれば、このような、不気味な後味を振り撒いた刹那に、次のニュースの原稿を読むような事は、避けなければならないだろう。報道するニュースの数が多ければ良いと言うのは、大いに錯乱した考えである。

 

今日の報道は、犯罪をスキャンダラスに扱い、それは自社の生存の為に、また、記者自身の生き甲斐の為に利用しているのだ。今日の報道は、このような不幸の現実を無視し、何も知らない視聴者に娯楽を提供しているだけだろう。それは本質的に、報道自体がバラエティ番組化しているという事と謂えるだろう。現実の世の中で起こるリアルな不幸を、平凡な日常を奮い立たせる為のカンフル剤にしてはいけない。

 

しかし、だからと言って「本来の報道とは何か」という風な報道の真理を求める事も、また滑稽だろうと思うのだ。しかし、ここで意識したいのは「本来の」報道という形而上学的な真理を追求するのではなく、「これからの」報道のあり方を模索する事だろう。リアルの犯罪は、ただ単に「やったり」「やられたり」の素朴な応酬があるだけではない。そういう犯罪に懐くイメージの殆どは誤ったものである。その中で、これからの報道は、この世の中の見えない場所に溢れる、確かな「人間同士の不幸の連鎖」の存在を広く知らせなければならないだろう。それもまた、これからの報道という一つの方法なのではないだろうか。