心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

知識の信憑性とは何だろう 〜ネットを通じて拡がる学術の可能性〜

最近は、Twitterとか個人のブログの方が、思想的な刺激を受ける事が多くなってきた。これらはいわゆるネット情報とか言って揶揄されるモノだけど、ネット情報を揶揄するといっても知識の「信憑性」が、という程度の次元の話であって、それらを「発想」という自由度で見た場合、そこら辺のそれで飯食ってるプロよりも面白い事を言っている人が多いのも事実だ。

 

知識の信憑性云々とかいう次元に固執する必要性は全くないと、みやすけは思う。真偽問わず、知識とは、どこにでも転がっているものだが、思想とか思考とかは、その人その場にしかないものだ。それに知識の真偽というのは、ファッションに流行り廃りがあるように、特別な一貫性を持った代物ではない。知識の真偽は、人によっても立場によっても違う見解を持つものなのだ。大切なのは、単純に真偽の「結論を下す」のではなく、真偽を追求するその「過程」であったり「方法」であったりするのだ。それは知識というのが、それ自体、既に結晶化していて、その結果を知る事が出来るが、そこまでに辿り着くに至った、今昔の大勢の人の葛藤の過程を感じる事は出来ないのと同じなのだ。

 

そんな事があって、大事なのは、知識をむやみに溜め込むだけなのではなく、その知識に至までの過程を知る事なのだと、最近は思うようになってきた。みやすけが今Twitterとか個人のブログとか云っているのは、このような事を発端があるのだ。なにも無条件に「ネット万歳! 」というようなロマンスを云うのではない。それは、ネット世界の界隈を見渡した場合、時に思わぬ出逢いが待ち受けている「可能性」を幾らか秘めているのではないか、と小さく主張しているに過ぎないのだ。

 

という一連の転換があって、みやすけは、知識を溜め込む分には学術書を読んで、思想を学ぶ為にはネットの海に溶け込む習慣になりつつある。ネットはよく便所の落書きそれ以下だとバカにされている。が、言論の自由を良い事に、学術を名乗った愚痴や偏見の吐き溜まりみたいな書籍が、散らかり放題している紙媒体の惨状を見てみれば、便所の落書きと揶揄されているネット情報との、その本質的な差は、大した意味を持たないような気がする。そもそも当の紙媒体も、それなりの地位や資格などを持った、所謂、単なる「保証書付き」の人間が書いているものでしかない。しかし保証書付きの商品なのに極稀に欠陥がまま有るように、地位や資格があるからと言って即ち「教授、素晴らしいです!」などという事はない。

 

しかし専門的な教育を受けたからには、それなりの信憑性を持った確からしい知識を提供してくれる側面もある。しかしそれでも、確からしい保証書を片手にすれば、頷いて読み込める安心感が大半ではないか、とも思う。知識の信憑性とはいうが、そもそも信憑性とは、どこからどのように湧いてくるのか、という一般的な問題もあるだろう。ネットだから確かかは判らないというが、その問題意識の根幹は、そのまま、確からしい事を云う場所である筈の学問の世界でも、ほとんど一緒であると思うのだ。現に、そのような問題意識を持って、一つの哲学の流行があった時期もあるくらいだ。だからその「知識が、確かかどうか判らない」という意識を、ネット情報のみに焦点を当てるのでは、単なる偏見になる。しかし、その意識をより広大な世界に当てはめてみれば、その偏見差別は、逆に学術への扉を拓く「カギ」に変わるのだと思う。

 

 このような流れの中で、学術をするという事が、学会のような偏狭な場所に閉じ込められているのではなく、ネットを通して、学術が大衆化するという事は、経過としては良い事のように思う。その流れ的に見れば、その内「言論の自由」を再考する時代も来るだろう。便所の落書きにも書きはしないくだらない愚痴偏見を吐き散らす学者が、その「崇高な学術!」の地位を陥落させる事は、結果的に学術の大衆化を進める事になり、その知識や方法を散らかった狭い研究室に閉じ込めて腐らせるよりかは、学術に取っては幸いな事であると思うのだ。