心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

確率論的統計学の手法についてのメモ 〜客観性から主観性へ〜

批評家たちの創るストーリーは、読み物としては面白いものが多いけど、それが現実的かと言えば、何だかなって思う訳です。社会の多様性は、確かにあると思います。でも、それを認識するだけの能力も方法も、今の人間には備わってはいないように感じます。なぜなら、どのような壮大な語り口でも、そこから零れ落ちる社会の現像は、認識し切れない程にあると思うからです。

 

それを統計学的アプローチのように、無数のサンプルを集めて、統計学的な計算方法で算出したとしても、その結果はあくまでも統計学的平均値を割り出せたまでの事で、それぞれの場所から得られる統計的サンプルが、実際どのように全体性を記述出来ているかは判らないのです。そのサンプルのフィールドが広げれば広い程、尚更このような傾向は顕著になるでしょう。むしろ、あらゆる存在が共存し得る社会を表現する為には、採取するサンプルのフィールドを細かく寸断し、複数の場合分けを加味した確率論的な方法に依拠しなければならない事は明白です。それはこの社会の現実性と、数理解析の実証性は、また違う位相空間にあると思うからです。現代の統計学的な実証性は、フラクタル次元数で還元されるであろう社会の現実性を表現する事が不可能であると思うのです。なので場合の数におけるフラクタル代数的な数理解析を構築する事によって、このような齟齬は、理論上解消出来るものだと思います。でもフラクタル代数的確率論の方法でもってしても、それは限りなくある平均値へと近づくだけの、近似解に終止してしまうでしょう。

 

様々な小さな集団が自己主張する世の中で、これからの社会学は、ミクロやマクロなどの領域の問題ではなく、自分の視野を通し、周囲を観察する感覚こそが大切なのだと思います。つまり、客観的な事実から主観的な現実への位相変位です。何故なら、これまでのマクロやミクロなどを主眼に置いた領域論では、必然的に零れ落ちる小さな集団が、必ず現れるからです。現代のように、様々な小さな集団が、自己主張する時代では、単純な統計学的方法では太刀打ち出来ないでしょう。でも、この確率論的統計学の手法が、新たに開発される事で、元来の数理解析の結果から零れ落ちる、どのような小さな集団をも、確率論的に実証する事をある程度は可能にするでしょう。

 

小さな集団という現象は、様々に発生し得るあらゆる集団を内包する形にしなければなりません。しかし、それでは、これからの時代の中では、どのような集団をも発生し得る確率が、長期的に見れば1となるような数学的発散も見られるでしょう。その場合、量子論におけるくりこみ理論のように、ある基数を元に、仮想的な現実を造り出し、社会現象を算出する方法もあるでしょう。総ての社会的ケースが存在可能である無限次元空間での確率が1となるような、純確率空間を想定し、ケースに応じてくりこみが可能であるような、亜確率空間を構築可能であれば、ある基数に比例した確率論的な社会的ケースを想定する事が可能だろうと思います。