心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

死(imaginary)と生(real)の循環へ

 実世界(real)に疲れた時、虚世界(imaginary)=死(dying)へと想いを馳せる事は、実は、固くなってしまった心身の苦しみを和らげる効果があります。人間を始め、総ての生体というのは、自身を取り巻く外世界が常に必要です。なぜなら、実世界(real)から、虚世界(imaginary)=死(dying)の世界を切り離す事は、部屋の中に閉じ込められて、空気が淀み、窒息するのと同じだからです。淀んだ部屋の空気は、定期的に換気し、外部の新鮮な空気を、改めて入れ替えなければなりません。そういう意味で、総ては、循環の流れの中にある事を意識しなければなりません。それは、人間が意識する「認識」の世界でも同じ事が云えます。

 

 虚世界=死の世界を意識するというのは、茫漠とそういう世界が在る事を無理矢理認める事ではなく、実世界と虚世界=死とを、自身を中心に、循環させる事なのです。虚世界(imaginary)=死(dying)というのは、スピリチュアルや、オカルトなどの実存的な存在であるという解釈だけではありません。虚世界(imaginary)=死(dying)というのは、実存的な存在だけではなく、いわゆる、実世界(real)から、虚世界(imaginary)=死(dying)の「循環」としての存在としても、意識する事ができます。

 

 この世界(real)は、この世界ではない場所(imaginary)を通して、絶えず循環し、互いに作用し合っている関係なのです。これは、数学や物理の世界では通例の事です。エレクトロニクスなどの分野では、電子の複雑な振る舞いなどを記述する数式は、見える数である実数(real number)の領域を超え、見えない数である虚数(imaginary number)の領域まで、視野を拡げる事により、複雑な数式が、ものの見事に簡略化されるという事例もあります。それは、純粋数学の領域でも同じです。実数のみの世界では、複雑な処理を施さざるを得ない代数方程式群でも、複素数を代入する事により、いとも簡単に解ける事例もあります。目に見える世界(world)だけでは、この世界(universe)は成り立たちません。それは、絶えず「現在」という場所が、見えない「過去」や「未来」を必要としているのと同じなのです。精神医学での分野では、鬱病や躁病などの疾病を「過去」「現在」「未来」と続く筈の循環作用の失調という風に、学説を立てるビンスワンガーなどの研究者も居ます。

 

 人間を始め、総ての生体というのは、外部から内部へ、内部から外部への循環の作用の中で、生きています。人間を始め、総ての生体を持つ生物は、この循環によって、新たなものを受け入れ、古いものを捨て去るのです。それは、ここで生きている実世界(real)と虚世界(imaginary)という構図もそうです。人間の認識というのは、絶えず自己という定点を保ちながら、その周りには、絶えず見えない領域が廻り、定点である自己を形作り続けています。それは、「見える」というのは、この「見えない」という領域を介さなければ、決して成り立たない事実を浮き彫りにするようです。人間が認識の中で生きるという事もそうです。認識というのは、見える「実(real)」と、見えない「虚(imaginary)」の循環作用の中で、「事(things)」「物(objects)」が交錯しながら、「自ら」を創り上げられていくものです。自分が現在、ここで生きているという、実存的世界の中で、生体を持つ生命として生きる事は、外部である領域から、内部である領域へ新たなものを取り入れる事により、生命体を維持し活動しています。熱力学第二法則で「エントロピー増大の法則」という定理があります。この定理は、秩序的である世界は、やがて無秩序な世界に移行する事を予言するものです。生体である人間は、絶えず、自分の生命体を維持するのに、大量の食事をする事を余儀なくされます。人間=生命体としての秩序は、熱力学第二法則によれば、そのままにしておけば、やがて無秩序=死(broken to the end)に行き着ことになってしまいます。

 

 生命体としての秩序=生(create for the myself)というのは、いわゆる、外部の世界から食物を定期的に摂取する事により、自己の秩序を保つ役割が無ければ、早々に、無秩序(broken to the end)に巻き込まれてしまう事になるという事です。生きるという事は、自らを自らの意思で秩序立てて行くという事です。それは、先ほども出たように、人が認識するという事も同じ事です。つまり、自らの意思を秩序立てる「認識」という行為は、自己同一の中で終止してしまう事により、無秩序(broken to the end)の状態に陥ってしまう事になります。秩序(create for the myself)という意欲は、自己同一を中心に閉じてしまう事により、気分障害や、感情の鬱積などの、精神疾患に繋がるような気がするのです。気分障害などの疾病は、いわば、自己同一の内で、固まり、淀んでしまった、過去などの鬱積が、積もり重なった結果として分析出来るのではないでしょうか。

 

 人が、思い悩み、心が枯渇しそうな時、不意に、自分が消えて無くなればというような絶望を感じる事があります。今、この苦境から脱する居場所が欲しいという願望は、死への欲望として、駆り立てる事もあるでしょう。この時、実際求めているのは、完全に消滅する( to the end)という事だけではないように思います。彼らの言葉の裏には、自己が消滅する事により、また別の居場所への願望(to the end why to want to go)という、現実世界からの逃避の意味合いを感じます。つまり、彼らが望むのは、全ての無(nothing of all)というものではなく、あくまでも自己が存在する(want to be myself)という前提での、異世界への渇望を意味しているようにも思えます。

 

 自己が消えている状態を感じるには、自己同一という状態が、尚の事、存在し続ける必要があります。そういう意味で、死を渇望し、自己を消滅させたいという欲求は、自己が存在するという前提に立った上での、願望だと云う事が出来るのではないでしょうか。それならば、その上で自己は、何を欲求しているのでしょうか。それは、その苦境から脱出する為の、逃避場所なのだと思います。何事も、死を想う事も、また感じる事も、自己同一が無ければ、成り立つ事は不可能です。それは、「死にたい」という欲求自体もそうです。死にたいと想う事で、彼らは、実際的に、死を決行する事により異世界への逃避を目論んでいるのではないでしょうか。

 

 彼らが想う死というのは、実存的な承認を得られた自己同一を前提にする事によって、実世界(real)からの延長(to other side)を求めているようにも見えます。その欲求は、実世界(real)に閉ざされ鬱積する感情を、また別の世界(imaginary world)を欲しているという風に見る事も出来そうです。それは、部屋に閉じこもったままでの生活で、ついには鬱積が堪り兼ねて、部屋の外へ飛び出す衝動に、似ています。