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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

ツイッターリテラシーについて 〜見えるものばかりが真実ではないということ〜

    好きな事を、好きなように自由に発信出来るサービス、それがTwitterと呼ばれるもの。その短い制限に関わらず、この自由な発信ツールのおかげで、様々な分野で、瞬時に情報を世界中に広める事が出来るようになりました。そして一時、その威力は、既存のメディアを超えたとも言われている程です。しかし、その手軽に送信される事の利便性や、その制限があるからこそ、必然的に大切な部分が圧縮隠蔽され得る可能性や、無造作に共有される文章の世界だからこその問題が見えているようでなりません。
 
    Twitterの利用の仕方は様々です。日常の些細な出来事を、淡々と連ねて行く人、その日の愚痴、そして人によっては、自分の鬱屈とした負の感情を吐き出す、居場所のように利用している人もいるでしょう。
 
    誰しも、自分にとっての負の感情というものは存在するものです。しかも、大抵の人は、そのはけ口を別に持ち、その適当な場所で、吐き出しているのではないでしょうか。しかしそのような場所が、たまたまTwitter上であるような場合も多くあると思います。例えそれが、負の感情のはけ口ではなく、政治や経済、社会問題などの問題を表明する場としての役割を持つ人も居るでしょう。
 
誰しも、その時の状況に合わせて、自由に発言しています。しかし、自由であるが故に、場合によっては、例えば、何気なく発言した自分のツイートが、他の誰かを傷つけ、トラブルに繋がるケースが多いように思います。
 
たった140文字の世界。改めてよく考えれば、140文字の制限内で、良い時も悪い時も含め、人の感情は一体どれだけ表現されているでしょうか。その十分に小さく圧縮された世界に、特に自分の感情を表現しようとするその時には、それは必然的に、文章では表現され得ない部分、つまり必然的に「抜け落ちる部分」が、意図的にまたは不意に問わず存在する事は明白です。
 
 
大抵の場合、その時々の個人の感情は、その状態に陥るまでに、様々な経験を通してして来た、いわば「生もの」です。その大切な経緯を、140文字という少ない言葉で、全てを書き記す事なんて不可能だと思います。それなのに、そのたった一つの鋭利なツイートに対して否応無しに、人格を決定されるならば、それは、とても悲しい事ではないでしょうか。
 
ここで注目したいのは、あらゆるメディアに対して、そのものの見方や考え方の、自分なりの意思を持つ事を提唱した。「メディアリテラシー」という概念です。メディアの様々な発展において、日々、怒涛のように流れ込んでくる情報を、そのまま鵜呑みにするのではなく、自分の感性でしっかりと分析し、コントロールする事、こうした流れは、そのままTwitterのようなツールでも全く同じことが言えます。この事を「ツイッターリテラシー」と呼ぶ事にしましょう。
 
    ユーザーはたった140文字という制限の中で、どのような対処、対応をしなければいけないのか。それは、個人的な部分でいえば、言葉を吐き出し、その結果に生じ得る軋轢もそうです。特に、全く会った事もない他人同士だった場合には、そういう問題が顕著に現れるでしょう。その人のツイートに触れて、何らかの嫌悪感を抱いた時、それを、そのままそのユーザー個人の人格として処理するのは、間違いだと思います。言葉に描かれ得るその人の感情は、そこに書かれてる一辺倒ではなく、一見無作為にも見える発言の節々にも、その人が辿って来たであろう「途」が存在する筈だと、みやすけは信じています。しかし、読者としての個人的な感情のキャパシティーの問題もあると思います。すなわち、総てを「受け入れろ!」という風に断言する事も避けなければなりません。
 
視たくないもの、それは、自分の感情の生理が許す範囲での許容量に対して鋭敏になる事は、決して、否定されるべきでは無いと、みやすけは思っています。しかし、それを「決して視ない」事と、視たくないが、その発言の「背景を感じる」事との二つの行動の間には、歴然としたリテラシーの意識の差があるように感じています。しかし、これも一般論として断言する事も、また別の事情を考慮する可能性を想像出来るならば、避けなければなりません。
 
    人の感情というのは、その時々に辿り着くまでに、様々な経緯を通じて発生するものです。例え、とあるツイートに触れ、その人の負の感情や、鋭利な発言に何か嫌悪感を感じるような事件があった時、すぐさま反射的に、その個人を否定するのではなくて、その文章に反映され切らない隠れた感情に目を向ける事は、様々な人が、それぞれの感情を持ち、共に空間を分かち合い生活しているという事を知る事においては、決して、無駄な労力ではないと信じています。
 
まさに「ツイッターリテラシー」というのは、特にTwitter上において、140文字のとても短い文章であらゆる話題を表現するという、ある意味特殊なその状況下だからこそ、どのように対処、思考して行くかという姿勢を求められるのか、という概念なのです。それは、様々に氾濫する情報の波を機械的に鵜呑みにしないようにするのと同じように、「ツイート」本来の特性である「短い文章で著さなければならない」という、自分の感情を言葉にするという、時に致命的な、このコンテンツだからこその限界を意識しましょうという呼びかけなのです。