心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

不安定な社会における形而上学 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part3

特に現代は、この「私的な」の領域が、社会科学を中心に、半ば全面的に流入される時代となった。特に、社会科学の領域においては、「私的な」という一観点を用いて、人間社会を複雑に構築する、ありとあらゆる現象を解明して行く手法が流行している。

そんな現代とは、これらは既に言われている事ではあるが、前近代において機能していた階級制や身分制などの制度が成り立たなくなった世界である。更に現在の学説にならうと、前近代的な不自由で不平等な社会構造においては、アイデンティティで個人を規定する必要は、あまりなかったのだとされている。しかしこれは逆にいえば、社会構造が絶対的であるとは、いわば、その社会構造の内側の安定性を保証するものだった訳である。

特に現代では、様々な属性が多様化複雑化した世界となり、自らその最中で自己を確立し続けなければならない。また人間とは、社会を集団で形成しなければならない動物なのである。そうした渦中で、絶え間なく流浪して行く構造の最中に、独立した成員としての自我を保つ必要がある訳だ。そしてさらに、こうした構造社会の中では、この社会に対して、自らが充分に果たせるであろうメリットを、常に表明し続ける必要さえもある始末である。そう自分は、この社会にとって、常に有用なのだと宣言し続けなければならない。なぜなら、かつてのような絶対的な社会構造を失った為に、今度は、個人の自律を要請されるからである。

複雑多様化の社会とは、言い換えれば、それだけ不安定な社会構造という事である。そういう社会で絶対性を求める事は、ややもすれば差別を生み出す事にもなりかねない。なので、こうした社会構造に絶対性を定立させる事は不可能なのである。特に、今の世の中の時流は、相対性の時代である。そういう相対性の時代では、自ずと、個人というものを、それも自ら率先して安定させなければならない状況下に、晒される訳である。個人の安定化、それが現代社会の中で生き残って行く為の、必須なる術である。

そしてその最中で、常に「私的な」の一観点を導入するとは、絶え間なく流動する構造社会の裡で、ポジティブにアイデンティティを確立する為の手掛かりを、有益な形で提供をしているとも言えるだろう。これはどういう事かというと、順を追って説明すると、一つに、現代では形而上を形成する余地が、もはや無いのだという事実に、その解答の一端はあると見ている。

それは、この社会には、様々なアイデンティティを持つ人間が、同時に存在しているという事に深く関わっている。しかも、それが常に意識される範囲にである。そのような社会では、誰かしらの発言をも、そこに曝されるべく批判のようなものが、常に付きまとっている訳である。しかもそれは、決して見えない形で、周囲から常に見張られているような体感の下にである。つまり、社会の成員全てが合意し得る現象というものが、もはや成り立たたず、そうした渦中で、さらにその絶え間のない批判の眼差しに晒される上に、アイデンティティを確立した個人を形成する必要性に迫られているという事である。つまり、形而上学が成り立つ時代の、事実上の終焉において、個人というものがより前面化されるという事である。

そしてもう一つのキーとは、サイエンスにおける「私的な」の流行にある。それは、「アイデンティティ」という新たな個人の時代の出現に、深く影響されている。これらサイエンスの「私的な」の流行と、時代が要請する「アイデンティティ」の確立とは、実は、密接な表裏を共有しているのだ。このサイエンスの「私的な」の導入に際しては、それらは、主に社会運動に還元された形で、広くその思考体系が共有されるに至っている。それはつまり、「かつてのサイエンス」の事実上の解体を、余儀なくされているという事である。

それによって現代では、幅広い範囲に、サイエンスという思想が還元される契機にもなった。そこではもはや、かつてのような知識を待つ者、そして持たざる者という階級さえも消滅した訳である。つまり、サイエンスに「私的な」を導入した事、それによって様々な知識が溢れ出し、その移り行くトレンドの最中で、個人を確立するアイデンティティは、より醸成されて行くのだ。これらの事柄によって、アイデンティティがポジティブに確立されるに際しての手掛かりを示して見た。

しかしその際に現れる、それなりの弊害も、また危惧されるべきであると思う。それは、「私的な」という観点から広範な社会的現象を「語る」事に際しての自身のスタンスと、その振る舞いである。そこには、自ずと錯綜した視点と、それに絡んだ自分のスタンス上の盲目性に、着眼せざるを得ない状況に突き当たる事になるだろう。そういう傾向の弊害なのか、あちらこちらで、自らを神であると自称するような言動が、事もあろうがサイエンスを標榜する学者の間にも、その感染の規模が拡張してる傾向が観られるのだ。

「私的な」からの観点を軸においた探究には、先程にも述べたように、強烈な快楽的多幸感を伴うシチュエーションが想定され得る。このような多幸感こそは、思想を体系化するに際して、危険を伴う事があるのだ。かつてドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、“神は死んだ” と、警句を延べた。ではなぜ “神は死んだ” のか。実のところその神を殺したのは、現代のサイエンスで流行している「私的な」の観点から思考する際に陥りやすい、強烈な思考的オーガズムではないか。思考的オーガズムとは、つまり自分の雄姿に酔い痴れている状態、またはその様である。

 

 

「主観」と「客観」そして【私的フィールド】へ 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part2

そして、それらを根源とするサイエンスという営みがある。それは、仮説と証明を繰り返して、知を体系化し、やがて真理へと限りなく近づく為の行いである。これまでサイエンスの手法では、「主観」といわれる、哲学上では「感情」とも分類される箇所を、極力排除してきた。それは、サイエンス的手法においては、「客観性」に基づく分析が、より重要視されている為である。そしてサイエンスとはその手順の上で、厳密に体系化されたものである。またそこでは、特定のルールを厳守した中で、さらに厳密な証明を施す事を、条件とされている。

しかし、例え同じサイエンスの仲間でも、そこから様々に分岐したそれぞれの分野では、この証明される際に使用される手法の定義は異なる。だがあえて共通しているものとして、まとめられるならば、それは基本的には、観察される対象に課せられる自身の客観性というスタンスを、厳守しなければならない事であると言えるだろう。そして恐らく、これらは広くサイエンスという分野で、取り入れられているものであろうと思われる。そうして観る対象を、客体化して分節化可能な現象として扱い、それらを普遍的とされる理論に一体系化するという事が、主にサイエンスの分野でなされている仕事である。

しかし、サイエンスが勃興する以前の更に昔では、また事情は違っていた。特に古代哲学においては、人間としての在り方を、根源から問うという側面がより強く出ていた。それは、現代サイエンスのように、経済活動に直接応用されているような、実用的なものとは、また違うものであった。特に現代では、サイエンスの果たす役割は、純粋理論の分野だけではなく、応用理論としてより実用的な面に、幅広く利用されている。またサイエンスの発達と、人類の進化は、時代が進むに連れて、より加速的に密接な相乗効果を生み出している。このようにサイエンスとは、古代哲学が、「知を愛する〔フィロソフィー〕」と表現されるように、主に「人間の心の営み」に関して影響を与えていたものとは、違うものに発展して来たと言えるだろう。【しかし、数学の起源のような、農耕との関わりが深くあったとされる分野の研究もある。】

このように古代哲学においては、より良く人間が、僅かな期間内に人間として如何に誠意を持って生きれるのかという事に、またそこにどれだけの意義を持つ事が出来るのかを模索してきた。また、人間的なより良い生き方とは、どのような意義を持ち得るのかという事も、広く探究されてもいた。つまり古代において哲学とは、人間がより良く生きるための智慧を授かる為の手段であった。

そうして古代哲学においては、精神、神の存在、また魂や美という現象を通して、この世界の根源を探究しようとした。そして、そこから様々な流派を派生させながら、人間の生という現象を模索して来たのだった。もちろん、その対象は、人間だけという事でもなかった。それは「自然」に関する好奇心がそうである。流派の中には、世界を構成する「自然」の根源を究明したいとした派閥も存在していたのだ。またそれらは、哲学と区分され自然哲学と呼ばれていた。そうして、この世界の根源を究明したいと湧き上がる欲求めいた感情や、またそれらを発端に、現実世界に内在する、様々な現象の根源を探究していこうとする哲学を、総括して形而上学と言われている。

 

これまでサイエンスは、「主観」とされるものを極力排除してきた。その傾向をより強めたのは、16〜19世紀の期間だとされている。この頃のサイエンスは、観察器具による現象の観察と、幾度の実験による検証という手法を確立した時期である。これら観察器具と実験の発達によって、サイエンスは飛躍的に厳密化されていく事になる。例えば、およそ16世紀にコペルニクスによって唱えられた地動説も、当時の天体の厳密な観察によって立証されたものだった。それから一世紀を経て、ガリレオによって発明された天体望遠鏡によって、その傾向はより厳密かつ急速に発達するに至っている。

こうしたサイエンスを行う際の手法が、「私的な」を排除した理由とは、なんだろうか。それは恐らく、そこに自分こそが全能であるという惑いの余地を、あらかじめ封じる為のものであったのではないかと、みやすけは思うのである。

世界の根源を探究するというのは、ある意味、魔境を彷徨うのと似ている。それは、自分が世界を俯瞰するという状況において、まるで、自分が世界の総てを手に取っているのだ、という感覚を憶える瞬間がある為である。それは世界を「客観視」する事を、逆に、世界を「支配」していると錯覚する事によって生じるものである。

そしてそれは、「思考」という行為にも、その片鱗は現れるのだ。頭の中で、深化する思考。現実のあらゆる感覚を拒否し、より深く思考を研ぎ澄ませると、不意にとある臨界に達する瞬間を迎える。それは「ひらめき」と言われるものである。やがてそれに到達し、そこに深い手応えを感じると、自分こそが世界の覇者であるという全能感に支配されてしまうのだ。

こうした世界の全てを堪能しきった、あらゆるものを理解してしまったという体感、それはさも強烈な体感である。更にそこでは、酔い痴れるような快感が伴う。そうした極限の思考に到達される臨界点では、輝くような「ひらめき」があり、その更なる内部には、「世界を知ってしまった」という全能感が待っている。そしてその溢れ出す多幸の瞬間に、この世の神が現れるのだ。

このような体感とは、いわばこの「私的な」という観点からの思考が成し得る、耽美なる極限の形なのだ。そしてこの場合の神とは、身体感覚を強烈に体感する思考的オーガズムの渦中に現れるものなのだ。思考の極限にほろりと咲く可憐な華。そのような強烈な体感の最中に、全知全能の神は、煌めくような閃光を放って、探究する者を丸ごと呑み込んでしまうのだ。

 

【知(ソフィア)】を【愛(フィロ)】する 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part1

「知る」とは一体なんだろう。何をもって、人は知るに至るのだろうか。人間はこれまで「真実」に対して真摯に取り組んできた。人間は知る事を無上とし、知ろうとする事によって様々なものを手に入れようとしてきた。「知る」とは恩寵であり、また時にそれは神の領域に跨がる為の神聖な儀式でもあった。知るという事、それは神の御姿に触れる体験でもあった。神に触れたその法悦の瞬間こそ、【知る】という目的において最上を手に入れた瞬間であった。

 

しかし人間にとって「知る」とは、ある物語においてパンドラの箱を開けると形容されるように、時にこの世界を悪夢に変える力をも生み出し得る。また人間は、この世界に物質的な現世界=形而下の世界と、魂、美、真実等の概念の棲む世界として、それを形而上とを対置した。このように人間は、魂、美や真実などの決して現世界を棲家としない世界の概念を、形而上的であるとしたのだった。そしてこれらが形而上であるという意義は、自分とは「決して知り得ない存在」とする事にその本義がある。これまでの哲学(フィロソフィー)は、特に古代ギリシアにおける古代哲学においては、【フィロソフィー=知を愛する】という風に非人称名と動詞を倒置させる事によって、より密接な関係性をそこに表現していた。

 

この【知り得ない】者としての人間が宿命的に持つ限界こそ、哲学(フィロソフィー)という言葉を【知を愛する】というふうに倒置させる形を取る事によって、その不完全性が間接的に表現されている。まさにそれは人間の本能が持つ愛の営みである。決して知り得ない恋人の心象を詠う恋文や詩は、古今東西どこの地域にも散見されるものである。しかし【愛】とは、知り得ない恋人への永遠の憧れである。恋人を永久に想うその心こそは、永遠に到達不可能な理想郷への憧憬から起こるものである。人間は、知り得ない存在に対して興味を掻き立てられる。かつその先に、輝かしい恩寵があるとなれば、なおさら人間はその対象に惹かれ、求めるのである。

 

恋人に憧れるのは、その恋人に、自分が持っていない何かを感じるからである。それもとても素晴らしく輝かしい何かを感じるからである。また人間はそこへ到達しようとするし、触れたいとも想う。だから【愛】は関係性になり得るのである。輝かしい何か=【知】、とそれを希求しようとする探求心の現れである【関係性】の発露、またそれを知ろうとする心地の良い感情=【愛】とが、快く交わっているのが、つまり【哲学(フィロソフィー)】なのである。

 

しかしこの関係性が、時に哲学を志す人間を愚昧にしてきた。それは、恋人を愛するあまり盲目になる時がままあるように。このように愛とは時に盲目である。恋に恋をしている時、また恋人をずっと手中に収めていたいという支配欲や、弱いものを護りたいとする守護本能、その様々なシチュエーションによって、人間はいかようにも、その愛の関係の最中に盲目に陥るきっかけを有している。

 

しかし「決して知り得ないもの」としての恋人とは、そこへ幾ら手を伸ばそうが、欲するあまり唇で想いを幾度となく重ねようが、常にそこに恋人の真理が現れるという結果が保証されている訳ではないのが、真実なのである。またそれは愛の真理でもある。恋人が不意に微笑んだ瞬間、また手をさりげなく握り返してきたりとかのその瞬間瞬間に、人間はそこに恋人の心の奥底を【知る】手応えを感じ、また恋人の本当の心を【知った】と自惚れるものである。また哲学において言うなれば、それは真理に到達した瞬間の恍惚であるとも形容出来るだろう。【知った】という感触、それを探求する心にとっては安堵の瞬間でもあり、またそれは間違いを犯す動機でもあるのだ。

 

また【決して知り得ない】とは、それは「決して触れられない」「決して対面出来ない」という事実の暗喩でもある。では一体、哲学〔フィロソフィー〕とは、何か。それは、【知】と【人】との愛の関係性である。まさに「知〔ソフィア〕」を「愛する〔フィロ〕」というイメージからは、まるで愛しき人に想いを馳せる、深い情景を連想させる。

この「決して知り得ない〔もの〕」。真実とは決して到達不可能な理想である。しかしこれが「触れられない」「到達不可能」な【知〔ソフィア〕】であるからこそ、これに【愛する〔フィロ〕】という表現を与えたのだろう。決して触れられない高嶺の花にこそ、人間の愛は、深く燃えるものである。こうした「知〔ソフィア〕」と「愛する〔フィロ〕」が限りなく親密に関係し合うような関係性とは、恋人を想う心そのものである。そのような「知り得ないもの」に対する、甘美なる表現は、人間が「知」という現象に対して抱く、温かいエロスを表象しているようにも見える。それは、現象の一部である【知】を人格として喩え、更にそれを決して「触れられない」「到達不可能」である理想の恋人を想う心地、そしてさもそのような関係性が、人間と人間との甘い愛になぞらえているように、思うのだ。

つまりフィロソフィーとは、【知】と【人間】との人間的な愛を介した蜜な関係を謳ったものではないか。つまり、そこには人間が本能的に持っているエロスが、暗喩として篭められているように思える。そして、その実践者を「知を愛する者〔フィロソフィスト〕」と呼ぶように、このような名に関しても、そこには、醸成されたより親密なムードが表現されているようでならない。【人間】は愛を持って、【知】と対面し、そこに密接な関係性が生まれる。そのような連想を想起させるのは、決してただの夢想ではないだろう。

 

当事者間ディスコミュニケーションとサバルタン

社会問題に関心のある人たちがいる。ひとえに社会問題に関心を持つのは、ひょんなことから、その道に入る人が多いだろう。ある人は当事者を名乗り、その問題のイニシアチブを会得する契機を得る。またある人は問題意識をなんらかのきっかけで意識し、問題の解決に尽力しようとするだろう。

 

しかし、ある人が社会に問題の眼を向ける動機は、その人個人の感性に基づくものであって、それぞれの属性に還元化する事は不可能かもしれない。例えば、一般的に左翼といってもその根幹の問題意識のきっかけはみんなそれぞれ違うのかも知れない。この事は、右翼であろうが学者であろうが、活動家であろうが、そうであるかも知れない。

 

つまり社会問題の当事者とは、本来はノイジーな配色の総体を指すものであって、左翼という単体を示すような一つの色という事ではないのかも知れない。しかし社会問題を共有し合う当事者という括りで連帯を表明するのを目の当たりにすると、そこで表現される団結隊の中にも、そこの場に似合わないある一定の層が存在するのではないかとも考えられるだろう。

 

当事者という団結の中では、総ての問題が明瞭となり、総ての動員がそこでコミュニケーションを通した形で自明となるように暗黙に了解されているのではないか。しかしまた、スピバクの云うようなサバルタンのように、本来語るべくして存在する筈の当事者が語るべく言葉を持ち合わせていない、という現実もまた言われている事である。

 

しかしそれはサバルタンという隠された属性が存在するというような存在論レベルの話ではなくて、それは本来、社会問題を共有するどのような団結隊も、完全に意思疎通のネットワークというものがあり得るという前提こそが、実は間違っているという問い返しなのではないか。むしろ同種の動員を持ってしても、そもそも完全なネットワーク化というものが不可能なのではないか、というその問い返しなのではないか。

 

社会問題を語る当事者の関係性は、語るべく言葉の了解を通してネットワーキングされる。その際の言葉の持つべく信憑性は、共感を通じてその団結隊のあらゆる箇所に浸透させなければならない。しかし、その持つべく言葉の信憑性は、完全化される事は不可能である。この事を、当事者間のディスコミュニケーションと言おう。この事にならえるなら、当事者だから分かり合え、いつ何時も共感し合えて、かつその関係性は友愛的で、共に未来を革命可能にする同志であるとするのは、そっけいな判断であると出来るのではないか。

 

むしろ当事者によって、そこに関わるようになった動機が様々であると仮定する事が出来るのなら、そのコミュニティは、共感的である事は本質的に不可能であり、当事者間のディスコミュニケーションの折り合う中で紡がれる儀礼的な、そして慣例的なコミュニティにしかなり得ないと言えるのではないか。この文脈から推察するにサバルタンとは言葉を持たない者ではなく、むしろ、繰り広げられるディスコミュニケーションの最中で孤立化せざるを得ない、その中でも本質的に言葉を持ち得ない存在なのかも知れない。

 

しかしこのような当事者のディスコミュニケーションは、「語るべく言葉」の上で了解されているものでもある。それでもそれは本来のニュアンスのコミュニケーションではない。本来相反するベクトルを持つであろうイデオロギー同士の集い、それが当事者間のコミュニティである。そのようなノイジーな配色の総体である当事者のコミュニケーションは、本質的にディスコミュニケーションにならざるを得ない訳である。サバルタンとは、このようなディスコミュニケーションの最中で生まれる存在である。語る言葉の重きに比重が偏れば偏る程、このようなディスコミュニケーションの持つサバルタン性は、よりその度合いを高めていくだろう。

 

しかし当事者の団結隊とは、言葉にその重きを置く習性がある。言葉の持つ物語性の共感性の浸透圧が高ければ高い程、当事者の持つ言葉は、その団結力を高めていくのだろう。しかしそれは、コミュニケーションで成り立っている訳ではなり得ない。それぞれの社会問題に関わるようになった動機が様々なきっかけであれば、そのディスコミュニケーションの度合いは、当事者の団結隊の色合いをよりノイジーに分散化する傾向を見せるだろう。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3

そのような過剰な社会では、必然的にそれらの重くなった衣服を、自主的に脱ぐ行程が必要になります。その一つの方法が、自分を「表現する」事なのです。そう、身体で表現する事によって剥き出しの自分をさらけ出す。それはこれまでに何重にも重なり、半ば石化してしまった皮膚が、かつての感覚を呼び覚ますための療法なのです。なので表現者の方々は、この時代だからこその大切な役目を負うているのです。それは人間の進化により、その社会性が肥大化して、ついには歯止めが効かなくなった事による、人間進化の歴史上の必然なのです。

 


現在、世界中のあちらこちらで、様々な表現を目の当たりにできます。しかし、人によっては、差し向けられる表現に嫌悪感を抱くものもあるでしょう。なんなんだこれは、と。しかし実は、その嫌悪感の根源こそ、それはその人にとって、より生々しく肉感のジクジクと伝わる表現なのではないか。みやすけはそう感じます。実はそれこそ、身体が求めているのです。そのグルーヴをガチガチの皮膚が呼応しようとしている。そう、肉体が共鳴するから、それが嫌悪感として感じるのです。だからそれがドロっとしたような感情であったりする。


それに、自分の感覚に素直になれないと、妙に嫌な感じがするものなのです。それも一種の防衛反応です。ある表現に対して、嫌悪感が大きいという事は、実は、それに共鳴する度合いも高いのですが、それに素直に身を委ねられないという事なのです。これは、人前で頑なに裸になろうとしないという事でもある訳です。そうして、自分を過剰に護ろうとする、言うなればこれは、それだけ周囲に脅威を感じているという証左でもあります。



しかし本当に自分とはなんにも関係がないと思えるのなら、普通、何の感情も湧きません。でも、それになにかドス黒い感情が湧き上がってくるのなら、それは本当に、単に感情の迷いの作用なのでしょうか? いいえ、それは恐らく、硬くなって歪になった皮膚に、じかに響いているからではないかと思うのです。普通なにかが響かないと何も鳴りません。そう、嫌悪を感じているというこの状態こそが、その表現に共鳴しているという状態なのです。まさに、それが如何に良いものか、または悪いものかに関わらず、です。みやすけはそう思います。硬くなって歪になった疾病程、つい、その本能を揺さぶるような刺激には、ついつい反応してしまうものです。



それに現代は、皮膚が過剰に膨れ上がり、なおかつ石化している人間が大半であろう時代なのです。しかも、その状態が普通の感覚であると、大方の人たちは思っている。そう、鈍感こそが普通であると。だから、敏感な人はことごとく生きづらいのです。そして、その鈍感さを打破しようとする表現は、ものによっては異様に観られるし、また嫌悪、蔑視されるのです。それは、表現を見せるとは、普段なんとなく護りに入っている、日常のテリトリーを壊す試みだからです。そうそれこそが、皮膚を脱ぐという試みなのです。


しかし肉体を覆う皮膚も、古くなった角質は、代謝によって剥がれ落ちるものです。それが皮膚の本来の姿です。この代謝こそ、生きる為に必要不可欠なものです。が、現在はその皮膚の角質が、硬直したまま剥がれて落ちて行かないのです。そう、この皮膚の異常こそは、現代のひっ迫した状況と、とても似ているような気がします。これは先ほど書いたようなペルソナの話もしかりです。しかし、いくら皮膚に代謝があると言っても、角質という存在はまったくの邪魔者ではありません。それは、ある一定の角質層が、肌の保湿を助ける作用があるからです。それに、どんなに古代に遡り、それが幾らプリミティブな状況でも、まったくペルソナのようなものが必要なかったのだと断言するのは不可能です。なぜならば、生物というものはそもそも、皮膚か、またそれに相当する臓器があるという事が大前提となっているからです。つまり、それが観念的であろうが、物理的であろうが、自分を護る手段は、必ず必要なのです。


生物が永い進化の末に、皮膚という臓器を生み出し、自他を区別するようになったという過程において、現代の人間のように、すでにそれが過剰にまで溢れる事態にまで陥ってしまったのは、なかばその道の宿命なのでしょう。すべては必然のもとで、この世界を廻るものなのでしょう。だから、そうした進化に抗うのではなく、それに適うメンテナンスが必要だという事なのです。それはどんな製品でも、その設計が緻密になればなるほどに、その後のメンテナンスは、より小マメにしなければならないのと同じなのです。例え設計図に反抗しても、待っているのは高値でせっかく買った製品の、挙げ句の果ての故障という訳です。


だから知能と、それに付随してその認知と行動が複雑に高度化すれば、それに相応するメンテナンスは必至なのです。これは、人間身体の野生本能の退化うんぬんの話ではありません。むしろその野生の本能が、今でも活きているからこそ、メンテナンスもしなければならない。つまり人間の進化が複雑に高度化すれば、おのずとこうなる宿命だったのです。


そういう進化の流れの必然の中で、再び表現する事の意義を考えてみますと、これは社会性というものが、より発達していく事がこれからも確実なのだとすれば、そこにこそ表現する事の意義は、おのずと付随して行く筈なのです。つまり両者は共に必要不可欠な存在という事です。表現の行為こそは、これからの人間の生物学的な進化に対して、なんらかの作用で影響し続けていくのでしょう。なので人間が現代でも表現を求めるのは、そこにこれからの救いを求めるからだとも言えそうです。


ではその救いとは、なんなのでしょうか? それは日々の社会的生活により窒息してしまいそうな肉体に、爽やかなる風穴を開ける役割なのです。またそれを生きる為の気晴らしとも言えるでしょうか。彼らのように皮膚の内部の「肉をさらけ出す」事、その生々しくオドロオドロしい表現こそが、それを求める時代の気風を表しているようでなりません。それぞれの時代は、これからを生き抜く為の救いを求めているのです。とどのつまり、その時代時代を代表する流行りとは、まさにそういうものなのかも知れません。


しかしよく巷では、最近の表現はうるさいだけだ、自己を面前に押し出し過ぎているというような話もちらほらと流れています。では、彼らが奏でているうるさい音は何を表象しているのでしょうか? また彼らが自分の表現を、衆目の面前にこれでもかと押し出さなければならないのは、一体何故なのでしょうか? それはそれだけの圧力と動力を駆使しなければ決して届かない、または打破不可能な現実が、彼らには見えているからです。だから彼らは決して、ただマイクを片手にガナっているだけではありません。そこに賛同者がいる限り、その部分にはなんらかのキーがあるという訳なのです。


これまでの進化の過程で、皮膚という臓器が生まれ、やがてそれがさらに衣服をまとい、そしてこの現代の社会では、ついに心理の面にまで、ペルソナという衣服をまとって生きなければならない地点にまで到達しました。この現代のように複雑でより高度化の様相を呈してしまうと、それだけメンテナンスの方も大変な労力と時間が必要になります。だからそれだけのギャップを補強する為に、強烈なパワーとビビッドが今の表現では必要とされているのでしょう。皮膚を脱ぐ為の表現行為、このような時代こそが、今この瞬間の進化という歴史なのです。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2

この世の中には自分を「表現している」人たちがいます。表現者たちは、自分の内なる世界をどんどんとさらけ出しています。そんな彼らは、激情的であり、かつ感傷的でもあります。時に人間は、コミュニケーション以上の何かを表出しようとします。それを身体表現であったり、文筆、はたまた映像、写真などであったりします。このような必要以上の表出とはなんでしょう。それは、自分の裡に秘めたる「肉」の部分を他人にさらけ出す行為なのです。

 

高度に進化した人間は普段、幾重にも皮膚をまとっています。まず個体を護るための臓器としての皮膚、また社交の場などで関係をスムーズにするためのドレスコード、TPOに見る衣服、そして社会的に自分の立場を演出するための役割を持つ心理面でいう所のペルソナ。このように人間がまとっている幾つもの皮膚が、自己の体表にまとわりついているのが、現代の人間の姿なのです。そのような状態は、時に人間を息苦しくさせ、生きづらさの原因にもなっています。

 

表現とは、そんは皮膚を脱ぎ捨てて、その内に秘めたる肉の部分を披露するという所に、その所以があります。皮膚をあえて脱ぎ捨て、その果敢な姿を披露する事こそ、彼らが表現者であるという所以なのです。「表現」とは、そう読んで字のごとく表に現わすと書きますが、その表に現れたるものこそ、普段、人が皮膚の内側に隠している「肉」の部分なのです。



でも最初に言ったように、人はさらけ出された「生の肉」の部分に、普通は触れようとしません。またその傷口が大きく開いていればいる程、またそれらが生々しいものであればある程に、その状態に比例して嫌悪感も甚大になります。ジュクジュクとした生の肉がさらけ出された姿。その状態を、大抵の人はエグいと感じる。またときには気味が悪いからと、吐き気を感じたりもするでしょう。しかし表現者は、あえてそれを衆目の面前にさらけ出します。



このように自分の内側の肉を、しかも生でさらけ出すということ。それはある人にとっては、エゲツのないものを見せつけられるという事です。だからそこには表現する側の苦痛や、観る側の苦悶が生じるのです。これはいえば肉と肉との対峙です。つまり、人間と人間とが、肉の表現を通して繋がり合うのが「表現」の世界なのです。普段の生活の中で皮膚の内側に閉じ込められている自己をさらけ出す。自分を表現するとは、相手の皮膚の内部に干渉する行為です。だから時に危機感を感じたりもするのです。

 

まただからこそ、そこにしかない美しさが表象されてもいるのです。自らの皮膚をあえて剥がし、それを披露する事で、相手の内側に訴えかける。こうした生の肉と肉との対峙により発生する美は、ある種の陶酔感をもたらします。表現の裡の美しさとは、ある意味こうした状態と対をなす所があります。ジュクジュクしい肉との生の対峙、そしてその最中に、ある種の恍惚が走り抜けます。この一連の生々しい身体の反応にこそ、表現の美しさは生まれるのです。


そう、美を堪能する為には、そのジュクジュクとした生々しい肉と肉の対峙が必要なのです。しかし、そういう生の表現だからこそ、それを堪能するだけの、観る側の表出もまた要求されるのです。それは、互いに普段皮膚の内側に秘めている肉をさらけ出し合うという事です。そのような表現者の裡に秘めている部分を衆目にさらけ出し、またそれに対峙して、観る側も共鳴してさらけ出すからこそ、そこにある人はより深く、またそれ以上の嫌悪感に襲われもするのです。誰しも、普段裸になる事に、羞恥心を抱くものです。

 

このように衣服を人前で脱ぐ事もはばかられるのに、それに対して表現では、その更に内側をもさらけ出す事が要求される訳なのです。なので、表現に対して何らかの嫌悪を感じるのは、ある意味では真っ当なのです。その拒否の感情は、まことに生物的な本能です。つまりこのような感情も、皮膚の内部を侵されない為の、一種の防衛反応と言えるでしょう。



しかし、肉体が皮膚に覆われている状態こそが日常なのです。大方は、それが当たり前だと思っています。つまり、皮膚が剥がれた姿は非日常な訳なのです。確かにそこら辺で、皮膚の剥がれた人は居ません。ましてや、衣服をまとっていないとなれば、法律に抵触する事態にもなり得ます。このように、何かをまとっていない人間は、社会で関係を作る事も出来ません。そうなれば必ずや、排除や嫌悪の対象になります。ましてや時に、存亡を左右する危機に陥る事にもなり得ます。基本的に人間とは、社会という大きな枠を集団で構成して、そこで関係性を築いて生活する動物であります。そして、その社会の内部でも人間は、先ほど書いたように、その場のドレスコードやTPOをわきまえた衣服をまといます。そうする事で相手に安心感を与えようとします。こうして、見ず知らずの他者と関係を築く為に、自分は脅威ではないという事をアピールする必要があるのです。そしてまた、これと同じような動向は、心理の面でも観られるのです。


大方の人間というのは、会う相手によって、自分の表出の度合いを微妙に変化させています。それは時に言葉使いであったり、また態度で示したりと、色々とあります。むろんその中には、衣服も含まれています。そしてそのような数多ある皮膚の代役を果たすものが、人間の個性を演出していると、先ほどにも書きました。一応確認なのですが、ここでいう個性とは、つまり演じるものという事です。なので厳然としたものではありません。会う相手によって、いかようにも変化していくものというニュアンスこそ、ここでいう個性です。そしてそれは数種のストックが必要になります。そのストックを駆使し、面々に応じて使い分け、それぞれに対面していくのです。



しかし、人間もまた「肉体」に宿る存在です。幾ら社会的動物とはいえ、そこには、おのずと肉体と対峙しなければならない場面がポツポツと現れるわけです。例えば食欲。人間は食物をこの体内に取り入れて、なおかつ吸収しなければなりません。そして要らないものを排出しなければならない訳なのです。


そして睡眠欲です。人間の肉体は、そのままでは保ちません。四六時中、肉体を稼働したままでそれを維持するのは、不可能なのです。なので定期的にメンテナンスにかけなければならないのです。日頃、この肉体には様々な情報が外部から飛来してきます。それらは刺激となって体内のあらゆる場所に記憶となります。それらの大半は蓄積されるのですが、その量は膨大なものです。だからその時々に応じて休眠して、その情報を処理しなければなりません。その一環に睡眠があるのです。外界から飛来する情報は、基本的に雑然としたものです。そうノイズがほとんどなのです。


そしてその雑然さが身体の中で膨大になると、人間は生きる事が不可能になります。そもそも肉体とは、本質的に組織です。組織というのは、ある程度の秩序と統制が必要なのですが、ノイズは四六時中外界から飛来してきます。だから身体はそのノイズをなるべくキャンセルして調整しようとします。そのメンテナンスを一任するのが睡眠なのです。


このように身体は、上に挙げたようなバイアスを、幾つも持って生きています。しかしそれらが必要とするのは肉体レベルのものだけではありません。例えばペルソナの問題です。ペルソナとは仮面を意味する言葉です。心理学的には相手と関係するために自分を装う、そのためのツールといえるでしょうか。人は相手に安心感を促す為の一貫として、このペルソナを使います。またこのペルソナは相手との距離間によって強弱があります。親しい人には、ペルソナの割合は弱くなりますが、対人関係が社会的になれば、それだけペルソナの役割りも大きくなります。それは多数の人間と関わるか、そうでないかとの違いです。つまりその人の社会的な管轄が拡がれば広がるほどに、そのペルソナの役割りもより重要になってきます。

 

ここを一つのポイントに、これから先を詳述してみましょう。社会的に対人関係が拡張した際に、その人の持つべくTPOやペルソナの必然性が増していきます。また、その規模に比例して、ストックすべき種類も多くなっていきます。つまり、まとうべく衣服がそれに応じて分厚くなっていくという訳です。しかし、だんだんと分厚くなって重くなる一方の衣服は、その根底にある生の皮膚をどんどんと圧迫していきます。そうなればその圧力によってグイグイと首を締めるように、息苦しくなってしまいます。そして仮にその状態が続けば、精神衛生に支障を来すでしょう。これは、本当の自分というのが、何が何だか分からなくなる、という心境に陥りかねないという事です。



そして、今の説明は物理的解釈としても有効なのですが、実は心理的釈明としても有用なのです。このように、それでも分厚くなるのが止まらない仮面は、とうとう自分の実の姿さえもあやふやにしてしまうことでしょう。自分を着飾るあまり、本当の自分を見失ってしまう、これこそ、ペルソナが過剰に作用する際になり得る、最悪のシナリオなのです。


しかしこの事は、まことに逆説的なのですが、むしろ、この人間の住む世界が、社会的に成熟しているのだとも言えるのです。しかしそれでも、それに伴い様々な仮面が、皮膚本来の役割りを超越して、常に四方八方に、自分という個性を演じ続けなければならない、という状況をも生み出しているという事でもあります。このように、社会生活を営む為に、本当の自分を押し殺さなければならない、という弊害を、現代の過剰さは、また生み出しているのです。



最初に紹介した通り、生物学的に皮膚とは、外界から身を護るためにある臓器です。しかし人間は、物理的環境に対処する為の皮膚という臓器を、さらに進化させなければなりませんでした。それは、人間の社会性の発達によるものが、その第一の動機だと考えられます。自然界で、または人間同士の社会生活で生き残る為に、その皮膚を更に発達させる必要があった。やがてそれをより深化させ、とうとう、より観念的な皮膚へと、進化を遂げる事となったのです。そして、その動向は必然的に「衣服」へと、その意義を向けざるを得なかったのです。そう、進化の過程で人間は、自らの意思で新たな皮膚をまとったのです。すべては社会という集団を維持する為にです。そう、そのようにして人間が自然界で生き残って行くための術を会得しようとしたのです。


人間というのは野生の動物のように、それ単独での生存は不可能です。だから大勢で群れて、人という種を護ろうとするのです。しかも、ごく少数の群れでは、人間の持つかつての危機本能は満足しなかったのです。一つの群れが、無数に集まって集落を作り、やがてそれらが村になり町となり、現代では国またそれ以上のグローバルの単位にまで、社会性が拡張されてきました。これらすべての動向は、人間が生き残る為の術なのです。

しかし、今お話ししたように、危機回避の本能が人間社会の本質なのだとすれば、特に現代的では、未だにその恐怖心だけが、無尽蔵に膨れ上がり、とうとう社会という存在が脅威となるまでに、膨大になり過ぎたのではないか。そう現在では、もはや生きる事の目的自体が過剰なのです。その過剰さの中では、必然的にふれあう人間の数も甚大に増えて、とうの社会もより複雑に怪奇化します。そして、それだけの領域を担うための駆使すべきペルソナやTPOも、それ相応の数が必要となったのです。しかし、そこには必然的に自己との葛藤が生じます。それは自己と仮面との間に、決定的なズレを起こすからです。おそらくは、ここにこそ大方の現代人の葛藤が表現されているような気がします。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1

あらゆる生物には「皮膚」という臓器があります。この皮膚を通して、生物は、敵味方、必要不必要を識別して、個体を維持しています。皮膚とは境界です。それを基準に、要るものの世界と要らないものの世界が、峻別されている。しかし、そんな要らないものの世界から要るものを得たりしている。つまり皮膚とは税関のようなものともいえるでしょう。そうして外と内との交流が皮膚を通して、日々行われている。そう、外部から要るものを得て、内部の個体を維持する、それが皮膚の役割です。

 

また特に、人間に関していえば、この皮膚という臓器を一つ取ってみても、そこには様々な意味合いを含意させています。生物にとって、体表に皮膚があって初めて、他の個体に触れる事が出来ます。基本的に皮膚とは、個体を保つ為の防御壁です。また別のところでは皮膚とは、様々な個体との出逢いを生み出すものでもあります。そう、外部と内部が接触する場所。そうした出逢いのきっかけとして、皮膚という臓器は、その意義を持ち得るのです。

 

自がある所に他がある。皮膚とは、そうした出逢いのきっかけとなる臓器です。それは皮膚があって個体が生存する事が出来るという事、また、そうする事で他に触れる事が出来る。皮膚とは、こうした出逢いを円滑にする円滑油の役割があります。このような作用のその証拠に、この皮膚という臓器が無い状態、例えば赤く血の流れる肉がさらけ出された箇所には、普通触れようとはしません。なぜならその状態を気味が悪いと感じるからです。

それと一緒で、皮膚の無いあやふやな個体に、人間は恐怖を感じたりします。皮膚の無い状態、まさに実態の伴わない存在に、人間は本能的に恐怖を感じてしまうのです。人間は得体の知れない影の存在を恐れる習性があります。例を出すとすれば、中身のなんだか分からない箱に手を入れる時に感じる恐怖などにも、それが表れています。何か居るのに、それが何かが分からない。輪郭の無い影に、ばっと呑み込まれてしまいそうな恐怖を感じるのは、それに明確な輪郭が無いからです。

 

そしてその代表的と言えるのが、幽霊の存在です。人間や他の動物は、実態の不明なものに出会うと、まずは触れたり、臭いを嗅いだりして、その不明な実態に輪郭を持たせようとします。輪郭を持たせるとは、理解するという事でもあります。得体の知れないそれが理解出来て、初めてその実態を把握し、物事を了解する事が出来るのです。皮膚とは物事を理解する時の輪郭を与えます。またその輪郭こそは、皮膚の表象であります。物事に輪郭を持たせる事、それは皮膚に覆われた個体を識別する方法の延長にあるものなのです。

 

また、それは逆に言えば、皮膚とは、自分という存在を明示的にする手段でもある訳です。つまり皮膚という臓器が、きちんと作用している事が、自分を自分足らしめている動機という訳なのです。

 

このように、自他の混乱を起こさないように、人間の身体には皮膚という組織があります。医学的には皮膚とは、体内組織を外界の侵入者から護る為のものです。しかしまた、これを別の観点から更に観ると、皮膚と一言に言ってもそれ自体には、様々なアイコンが表象されてもいるのです。表象としての皮膚、例えば人間は、皮膚の上にさらに衣服をまといます。動物では、まずこのように行動する個体は居ません。では、この「衣服」とは、一体なんの表象なんでしょうか。皮膚の上に衣服をまとう、そうこれこそは人間の社会性の発露なのです。

これまでの歴史の中で人間は群れを作って、人類という種を保存して来ました。人間は基本的に、群れる事でしか、身を守る手段を知りません。だから、このような群れからはぐれる事は、まさしく死を意味していたのです。もしかしたらこのような境遇から、人間は、衣服をまとう事を憶えたのかも知れません。衣服こそは、それをあえてまとう事で、自分の身元を明らかにする役割を持つのです。

 

しかし衣服とは一般的に、単なる体温調整の役割として語られがちです。でも別の側面には、衣服をあえてまとう事で、その人間がどういう人物なのか、どういう属性なのか、またどの地位に属しているのかという身分を釈明する役わりを負っている訳なのです。自分とはどういう人物なのか、そう釈明して人間は、関係性を繕う事で、社会性というものを発達させて来たのです。それは人間の群れを維持するための役割を負っていたのです。

 

その他にも、人間は様々な皮膚の役割を、色々なもので代行しようとします。その一つに「心理面」でのものがあります。時代が進み、人口も増大し、群れが社交の役割を演じ始める頃にまで、関係の高度化が進行すると、今度は、衣服をまとうだけでは、関係性を繕うのにままならなくなってきたのです。つまり、自らの行いを装う必要性が出てきたのです。この時、人間は自らの心を装うようになります。この心の装い、それを心理学的にはペルソナといわれています。

 

そしてある時には、特に社交的な場での服装などのしきたりの中に、ドレスコードといわれているものもあります。そして更に、人はよくその場にあったTPOをわきまえろと忠告します。このように人間はその都度、その場その場に似合った衣服に着替えなければなりません。そしてその場にあったTPOもわきまえないといけません。そう、このペルソナもドレスコードも、またTPOも、拡張された形での「皮膚」の表象なのです。そうして表象された皮膚を「まとう」事で、関係性が高度化した社交などの場の行いがスムーズになります。

 

またそういう広義の範囲を含めると、この社会でも、他にも様々にこの表象された皮膚という作用は機能しているものなのです。身にまとう。このような、その場その場に似合った様々な衣服を媒介して関係を作り、人間は社会を構成します。とどのつまり衣服は皮膚と同等な訳です。皮膚をまとう事で肉体が維持できるように、衣服を身にまとう事で、社会生活を円滑にするのです。

 

また皮膚とは、自分と他者との媒介の役割をも持ちます。他者と初めて会うなり、人はまず、相手の衣服を見て、その相手が安心できる存在なのかの確証を得ようとします。そして心理面でも、まず相手に安心感を与えるために、安心出来る自分を演じようとします。

 

皮膚とは、このように相手と関係を始めるためのきっかけとなります。全身の皮膚が剥がれ、血のドロドロ滲む姿に、普通人は恐怖を憶えます。しかしそれは心理面でも同じなのです。また、ドレスコードやTPOをわきまえないというのも、ある意味皮膚の剥がれた姿といえるでしょう。そしてきちんと皮膚のある安心できる相手とは、繋がろうとします。色々と質問を投げかけたり、自己紹介をしたりします。それが自己の表出です。

 

皮膚による媒介と自己の表出、これらは作用反作用の法則と同じです。自他との境が明瞭になって、人間は他者を知ろうとするし、自分を曝け出そうとします。そのように人間とは、皮膚という媒介により、相手を感じ、自分というものをスムーズに表出しようとします。そう、すべては相手と円満な関係を築くための手段という訳です。

 

これまで見てきたように、人間とは関係を主軸にする動物です。そして人間個人の外縁には社会というものがあります。この社会とは、人間という種が、生存する為のコロニーです。また時に、この他のコロニー同士が出逢う事もあるでしょう。その時のコミュニケーションの役割も、そしてそのコロニーの位置付けや、縄張りという意味では、それもまた皮膚の表象と言えそうです。そうして人間は、社会的な関係を円滑にするために、また個人的な関係を安心に行うために、相手に自分は脅威ではないという事をアピールしつつ、より大きな社会を形成しているのです。そしてその相互作用の最中で、徐々に浮き彫りになってくるのが、個性というものなのです。

 

例えば、皮膚という臓器が、外界からの侵入者を防ぐ役割りを持つものなのだとすれば、その皮膚に触れる事が出来る存在は、安心出来る個性という訳なのです。だから、人間は自分が脅威でない事をアピールする為に、様々な方法で自分を着飾り、相手に安心感を与えようとするのです。

 

また日常の生活では、自分なりの安心性を表すような衣服で着飾り、他者と対面します。例えば、相手の服装に少しでも奇妙さを感じると、人はその相手に嫌疑の眼を向けます。それは、その人が単に用心深いのではなく、そもそも皮膚という臓器の持つ、本能的な心理的作用であるのです。この事から、社会生活を送る上では、衣服で安心感のある自分を表出してこそ、初めてその人は他者と対面が出来るという訳なのです。着る衣服で安心感を演出して、かつその安心感の合意の上で、無数の人と繋がっていく。いうなれば、それは人間という個の保存本能のようなものなのでしょう。