心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

【知(ソフィア)】を【愛(フィロ)】する 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part1

「知る」とは一体なんだろう。何をもって、人は知るに至るのだろうか。人間はこれまで「真実」に対して真摯に取り組んできた。人間は知る事を無上とし、知ろうとする事によって様々なものを手に入れようとしてきた。「知る」とは恩寵であり、また時にそれは神の領域に跨がる為の神聖な儀式でもあった。知るという事、それは神の御姿に触れる体験でもあった。神に触れたその法悦の瞬間こそ、【知る】という目的において最上を手に入れた瞬間であった。

 

しかし人間にとって「知る」とは、ある物語においてパンドラの箱を開けると形容されるように、時にこの世界を悪夢に変える力をも生み出し得る。また人間は、この世界に物質的な現世界=形而下の世界と、魂、美、真実等の概念の棲む世界として、それを形而上とを対置した。このように人間は、魂、美や真実などの決して現世界を棲家としない世界の概念を、形而上的であるとしたのだった。そしてこれらが形而上であるという意義は、自分とは「決して知り得ない存在」とする事にその本義がある。これまでの哲学(フィロソフィー)は、特に古代ギリシアにおける古代哲学においては、【フィロソフィー=知を愛する】という風に非人称名と動詞を倒置させる事によって、より密接な関係性をそこに表現していた。

 

この【知り得ない】者としての人間が宿命的に持つ限界こそ、哲学(フィロソフィー)という言葉を【知を愛する】というふうに倒置させる形を取る事によって、その不完全性が間接的に表現されている。まさにそれは人間の本能が持つ愛の営みである。決して知り得ない恋人の心象を詠う恋文や詩は、古今東西どこの地域にも散見されるものである。しかし【愛】とは、知り得ない恋人への永遠の憧れである。恋人を永久に想うその心こそは、永遠に到達不可能な理想郷への憧憬から起こるものである。人間は、知り得ない存在に対して興味を掻き立てられる。かつその先に、輝かしい恩寵があるとなれば、なおさら人間はその対象に惹かれ、求めるのである。

 

恋人に憧れるのは、その恋人に、自分が持っていない何かを感じるからである。それもとても素晴らしく輝かしい何かを感じるからである。また人間はそこへ到達しようとするし、触れたいとも想う。だから【愛】は関係性になり得るのである。輝かしい何か=【知】、とそれを希求しようとする探求心の現れである【関係性】の発露、またそれを知ろうとする心地の良い感情=【愛】とが、快く交わっているのが、つまり【哲学(フィロソフィー)】なのである。

 

しかしこの関係性が、時に哲学を志す人間を愚昧にしてきた。それは、恋人を愛するあまり盲目になる時がままあるように。このように愛とは時に盲目である。恋に恋をしている時、また恋人をずっと手中に収めていたいという支配欲や、弱いものを護りたいとする守護本能、その様々なシチュエーションによって、人間はいかようにも、その愛の関係の最中に盲目に陥るきっかけを有している。

 

しかし「決して知り得ないもの」としての恋人とは、そこへ幾ら手を伸ばそうが、欲するあまり唇で想いを幾度となく重ねようが、常にそこに恋人の真理が現れるという結果が保証されている訳ではないのが、真実なのである。またそれは愛の真理でもある。恋人が不意に微笑んだ瞬間、また手をさりげなく握り返してきたりとかのその瞬間瞬間に、人間はそこに恋人の心の奥底を【知る】手応えを感じ、また恋人の本当の心を【知った】と自惚れるものである。また哲学において言うなれば、それは真理に到達した瞬間の恍惚であるとも形容出来るだろう。【知った】という感触、それを探求する心にとっては安堵の瞬間でもあり、またそれは間違いを犯す動機でもあるのだ。

 

また【決して知り得ない】とは、それは「決して触れられない」「決して対面出来ない」という事実の暗喩でもある。では一体、哲学〔フィロソフィー〕とは、何か。それは、【知】と【人】との愛の関係性である。まさに「知〔ソフィア〕」を「愛する〔フィロ〕」というイメージからは、まるで愛しき人に想いを馳せる、深い情景を連想させる。

この「決して知り得ない〔もの〕」。真実とは決して到達不可能な理想である。しかしこれが「触れられない」「到達不可能」な【知〔ソフィア〕】であるからこそ、これに【愛する〔フィロ〕】という表現を与えたのだろう。決して触れられない高嶺の花にこそ、人間の愛は、深く燃えるものである。こうした「知〔ソフィア〕」と「愛する〔フィロ〕」が限りなく親密に関係し合うような関係性とは、恋人を想う心そのものである。そのような「知り得ないもの」に対する、甘美なる表現は、人間が「知」という現象に対して抱く、温かいエロスを表象しているようにも見える。それは、現象の一部である【知】を人格として喩え、更にそれを決して「触れられない」「到達不可能」である理想の恋人を想う心地、そしてさもそのような関係性が、人間と人間との甘い愛になぞらえているように、思うのだ。

つまりフィロソフィーとは、【知】と【人間】との人間的な愛を介した蜜な関係を謳ったものではないか。つまり、そこには人間が本能的に持っているエロスが、暗喩として篭められているように思える。そして、その実践者を「知を愛する者〔フィロソフィスト〕」と呼ぶように、このような名に関しても、そこには、醸成されたより親密なムードが表現されているようでならない。【人間】は愛を持って、【知】と対面し、そこに密接な関係性が生まれる。そのような連想を想起させるのは、決してただの夢想ではないだろう。

 

当事者間ディスコミュニケーションとサバルタン

社会問題に関心のある人たちがいる。ひとえに社会問題に関心を持つのは、ひょんなことから、その道に入る人が多いだろう。ある人は当事者を名乗り、その問題のイニシアチブを会得する契機を得る。またある人は問題意識をなんらかのきっかけで意識し、問題の解決に尽力しようとするだろう。

 

しかし、ある人が社会に問題の眼を向ける動機は、その人個人の感性に基づくものであって、それぞれの属性に還元化する事は不可能かもしれない。例えば、一般的に左翼といってもその根幹の問題意識のきっかけはみんなそれぞれ違うのかも知れない。この事は、右翼であろうが学者であろうが、活動家であろうが、そうであるかも知れない。

 

つまり社会問題の当事者とは、本来はノイジーな配色の総体を指すものであって、左翼という単体を示すような一つの色という事ではないのかも知れない。しかし社会問題を共有し合う当事者という括りで連帯を表明するのを目の当たりにすると、そこで表現される団結隊の中にも、そこの場に似合わないある一定の層が存在するのではないかとも考えられるだろう。

 

当事者という団結の中では、総ての問題が明瞭となり、総ての動員がそこでコミュニケーションを通した形で自明となるように暗黙に了解されているのではないか。しかしまた、スピバクの云うようなサバルタンのように、本来語るべくして存在する筈の当事者が語るべく言葉を持ち合わせていない、という現実もまた言われている事である。

 

しかしそれはサバルタンという隠された属性が存在するというような存在論レベルの話ではなくて、それは本来、社会問題を共有するどのような団結隊も、完全に意思疎通のネットワークというものがあり得るという前提こそが、実は間違っているという問い返しなのではないか。むしろ同種の動員を持ってしても、そもそも完全なネットワーク化というものが不可能なのではないか、というその問い返しなのではないか。

 

社会問題を語る当事者の関係性は、語るべく言葉の了解を通してネットワーキングされる。その際の言葉の持つべく信憑性は、共感を通じてその団結隊のあらゆる箇所に浸透させなければならない。しかし、その持つべく言葉の信憑性は、完全化される事は不可能である。この事を、当事者間のディスコミュニケーションと言おう。この事にならえるなら、当事者だから分かり合え、いつ何時も共感し合えて、かつその関係性は友愛的で、共に未来を革命可能にする同志であるとするのは、そっけいな判断であると出来るのではないか。

 

むしろ当事者によって、そこに関わるようになった動機が様々であると仮定する事が出来るのなら、そのコミュニティは、共感的である事は本質的に不可能であり、当事者間のディスコミュニケーションの折り合う中で紡がれる儀礼的な、そして慣例的なコミュニティにしかなり得ないと言えるのではないか。この文脈から推察するにサバルタンとは言葉を持たない者ではなく、むしろ、繰り広げられるディスコミュニケーションの最中で孤立化せざるを得ない、その中でも本質的に言葉を持ち得ない存在なのかも知れない。

 

しかしこのような当事者のディスコミュニケーションは、「語るべく言葉」の上で了解されているものでもある。それでもそれは本来のニュアンスのコミュニケーションではない。本来相反するベクトルを持つであろうイデオロギー同士の集い、それが当事者間のコミュニティである。そのようなノイジーな配色の総体である当事者のコミュニケーションは、本質的にディスコミュニケーションにならざるを得ない訳である。サバルタンとは、このようなディスコミュニケーションの最中で生まれる存在である。語る言葉の重きに比重が偏れば偏る程、このようなディスコミュニケーションの持つサバルタン性は、よりその度合いを高めていくだろう。

 

しかし当事者の団結隊とは、言葉にその重きを置く習性がある。言葉の持つ物語性の共感性の浸透圧が高ければ高い程、当事者の持つ言葉は、その団結力を高めていくのだろう。しかしそれは、コミュニケーションで成り立っている訳ではなり得ない。それぞれの社会問題に関わるようになった動機が様々なきっかけであれば、そのディスコミュニケーションの度合いは、当事者の団結隊の色合いをよりノイジーに分散化する傾向を見せるだろう。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3

そのような過剰な社会では、必然的にそれらの重くなった衣服を、自主的に脱ぐ行程が必要になります。その一つの方法が、自分を「表現する」事なのです。そう、身体で表現する事によって剥き出しの自分をさらけ出す。それはこれまでに何重にも重なり、半ば石化してしまった皮膚が、かつての感覚を呼び覚ますための療法なのです。なので表現者の方々は、この時代だからこその大切な役目を負うているのです。それは人間の進化により、その社会性が肥大化して、ついには歯止めが効かなくなった事による、人間進化の歴史上の必然なのです。

 


現在、世界中のあちらこちらで、様々な表現を目の当たりにできます。しかし、人によっては、差し向けられる表現に嫌悪感を抱くものもあるでしょう。なんなんだこれは、と。しかし実は、その嫌悪感の根源こそ、それはその人にとって、より生々しく肉感のジクジクと伝わる表現なのではないか。みやすけはそう感じます。実はそれこそ、身体が求めているのです。そのグルーヴをガチガチの皮膚が呼応しようとしている。そう、肉体が共鳴するから、それが嫌悪感として感じるのです。だからそれがドロっとしたような感情であったりする。


それに、自分の感覚に素直になれないと、妙に嫌な感じがするものなのです。それも一種の防衛反応です。ある表現に対して、嫌悪感が大きいという事は、実は、それに共鳴する度合いも高いのですが、それに素直に身を委ねられないという事なのです。これは、人前で頑なに裸になろうとしないという事でもある訳です。そうして、自分を過剰に護ろうとする、言うなればこれは、それだけ周囲に脅威を感じているという証左でもあります。



しかし本当に自分とはなんにも関係がないと思えるのなら、普通、何の感情も湧きません。でも、それになにかドス黒い感情が湧き上がってくるのなら、それは本当に、単に感情の迷いの作用なのでしょうか? いいえ、それは恐らく、硬くなって歪になった皮膚に、じかに響いているからではないかと思うのです。普通なにかが響かないと何も鳴りません。そう、嫌悪を感じているというこの状態こそが、その表現に共鳴しているという状態なのです。まさに、それが如何に良いものか、または悪いものかに関わらず、です。みやすけはそう思います。硬くなって歪になった疾病程、つい、その本能を揺さぶるような刺激には、ついつい反応してしまうものです。



それに現代は、皮膚が過剰に膨れ上がり、なおかつ石化している人間が大半であろう時代なのです。しかも、その状態が普通の感覚であると、大方の人たちは思っている。そう、鈍感こそが普通であると。だから、敏感な人はことごとく生きづらいのです。そして、その鈍感さを打破しようとする表現は、ものによっては異様に観られるし、また嫌悪、蔑視されるのです。それは、表現を見せるとは、普段なんとなく護りに入っている、日常のテリトリーを壊す試みだからです。そうそれこそが、皮膚を脱ぐという試みなのです。


しかし肉体を覆う皮膚も、古くなった角質は、代謝によって剥がれ落ちるものです。それが皮膚の本来の姿です。この代謝こそ、生きる為に必要不可欠なものです。が、現在はその皮膚の角質が、硬直したまま剥がれて落ちて行かないのです。そう、この皮膚の異常こそは、現代のひっ迫した状況と、とても似ているような気がします。これは先ほど書いたようなペルソナの話もしかりです。しかし、いくら皮膚に代謝があると言っても、角質という存在はまったくの邪魔者ではありません。それは、ある一定の角質層が、肌の保湿を助ける作用があるからです。それに、どんなに古代に遡り、それが幾らプリミティブな状況でも、まったくペルソナのようなものが必要なかったのだと断言するのは不可能です。なぜならば、生物というものはそもそも、皮膚か、またそれに相当する臓器があるという事が大前提となっているからです。つまり、それが観念的であろうが、物理的であろうが、自分を護る手段は、必ず必要なのです。


生物が永い進化の末に、皮膚という臓器を生み出し、自他を区別するようになったという過程において、現代の人間のように、すでにそれが過剰にまで溢れる事態にまで陥ってしまったのは、なかばその道の宿命なのでしょう。すべては必然のもとで、この世界を廻るものなのでしょう。だから、そうした進化に抗うのではなく、それに適うメンテナンスが必要だという事なのです。それはどんな製品でも、その設計が緻密になればなるほどに、その後のメンテナンスは、より小マメにしなければならないのと同じなのです。例え設計図に反抗しても、待っているのは高値でせっかく買った製品の、挙げ句の果ての故障という訳です。


だから知能と、それに付随してその認知と行動が複雑に高度化すれば、それに相応するメンテナンスは必至なのです。これは、人間身体の野生本能の退化うんぬんの話ではありません。むしろその野生の本能が、今でも活きているからこそ、メンテナンスもしなければならない。つまり人間の進化が複雑に高度化すれば、おのずとこうなる宿命だったのです。


そういう進化の流れの必然の中で、再び表現する事の意義を考えてみますと、これは社会性というものが、より発達していく事がこれからも確実なのだとすれば、そこにこそ表現する事の意義は、おのずと付随して行く筈なのです。つまり両者は共に必要不可欠な存在という事です。表現の行為こそは、これからの人間の生物学的な進化に対して、なんらかの作用で影響し続けていくのでしょう。なので人間が現代でも表現を求めるのは、そこにこれからの救いを求めるからだとも言えそうです。


ではその救いとは、なんなのでしょうか? それは日々の社会的生活により窒息してしまいそうな肉体に、爽やかなる風穴を開ける役割なのです。またそれを生きる為の気晴らしとも言えるでしょうか。彼らのように皮膚の内部の「肉をさらけ出す」事、その生々しくオドロオドロしい表現こそが、それを求める時代の気風を表しているようでなりません。それぞれの時代は、これからを生き抜く為の救いを求めているのです。とどのつまり、その時代時代を代表する流行りとは、まさにそういうものなのかも知れません。


しかしよく巷では、最近の表現はうるさいだけだ、自己を面前に押し出し過ぎているというような話もちらほらと流れています。では、彼らが奏でているうるさい音は何を表象しているのでしょうか? また彼らが自分の表現を、衆目の面前にこれでもかと押し出さなければならないのは、一体何故なのでしょうか? それはそれだけの圧力と動力を駆使しなければ決して届かない、または打破不可能な現実が、彼らには見えているからです。だから彼らは決して、ただマイクを片手にガナっているだけではありません。そこに賛同者がいる限り、その部分にはなんらかのキーがあるという訳なのです。


これまでの進化の過程で、皮膚という臓器が生まれ、やがてそれがさらに衣服をまとい、そしてこの現代の社会では、ついに心理の面にまで、ペルソナという衣服をまとって生きなければならない地点にまで到達しました。この現代のように複雑でより高度化の様相を呈してしまうと、それだけメンテナンスの方も大変な労力と時間が必要になります。だからそれだけのギャップを補強する為に、強烈なパワーとビビッドが今の表現では必要とされているのでしょう。皮膚を脱ぐ為の表現行為、このような時代こそが、今この瞬間の進化という歴史なのです。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2

この世の中には自分を「表現している」人たちがいます。表現者たちは、自分の内なる世界をどんどんとさらけ出しています。そんな彼らは、激情的であり、かつ感傷的でもあります。時に人間は、コミュニケーション以上の何かを表出しようとします。それを身体表現であったり、文筆、はたまた映像、写真などであったりします。このような必要以上の表出とはなんでしょう。それは、自分の裡に秘めたる「肉」の部分を他人にさらけ出す行為なのです。

 

高度に進化した人間は普段、幾重にも皮膚をまとっています。まず個体を護るための臓器としての皮膚、また社交の場などで関係をスムーズにするためのドレスコード、TPOに見る衣服、そして社会的に自分の立場を演出するための役割を持つ心理面でいう所のペルソナ。このように人間がまとっている幾つもの皮膚が、自己の体表にまとわりついているのが、現代の人間の姿なのです。そのような状態は、時に人間を息苦しくさせ、生きづらさの原因にもなっています。

 

表現とは、そんは皮膚を脱ぎ捨てて、その内に秘めたる肉の部分を披露するという所に、その所以があります。皮膚をあえて脱ぎ捨て、その果敢な姿を披露する事こそ、彼らが表現者であるという所以なのです。「表現」とは、そう読んで字のごとく表に現わすと書きますが、その表に現れたるものこそ、普段、人が皮膚の内側に隠している「肉」の部分なのです。



でも最初に言ったように、人はさらけ出された「生の肉」の部分に、普通は触れようとしません。またその傷口が大きく開いていればいる程、またそれらが生々しいものであればある程に、その状態に比例して嫌悪感も甚大になります。ジュクジュクとした生の肉がさらけ出された姿。その状態を、大抵の人はエグいと感じる。またときには気味が悪いからと、吐き気を感じたりもするでしょう。しかし表現者は、あえてそれを衆目の面前にさらけ出します。



このように自分の内側の肉を、しかも生でさらけ出すということ。それはある人にとっては、エゲツのないものを見せつけられるという事です。だからそこには表現する側の苦痛や、観る側の苦悶が生じるのです。これはいえば肉と肉との対峙です。つまり、人間と人間とが、肉の表現を通して繋がり合うのが「表現」の世界なのです。普段の生活の中で皮膚の内側に閉じ込められている自己をさらけ出す。自分を表現するとは、相手の皮膚の内部に干渉する行為です。だから時に危機感を感じたりもするのです。

 

まただからこそ、そこにしかない美しさが表象されてもいるのです。自らの皮膚をあえて剥がし、それを披露する事で、相手の内側に訴えかける。こうした生の肉と肉との対峙により発生する美は、ある種の陶酔感をもたらします。表現の裡の美しさとは、ある意味こうした状態と対をなす所があります。ジュクジュクしい肉との生の対峙、そしてその最中に、ある種の恍惚が走り抜けます。この一連の生々しい身体の反応にこそ、表現の美しさは生まれるのです。


そう、美を堪能する為には、そのジュクジュクとした生々しい肉と肉の対峙が必要なのです。しかし、そういう生の表現だからこそ、それを堪能するだけの、観る側の表出もまた要求されるのです。それは、互いに普段皮膚の内側に秘めている肉をさらけ出し合うという事です。そのような表現者の裡に秘めている部分を衆目にさらけ出し、またそれに対峙して、観る側も共鳴してさらけ出すからこそ、そこにある人はより深く、またそれ以上の嫌悪感に襲われもするのです。誰しも、普段裸になる事に、羞恥心を抱くものです。

 

このように衣服を人前で脱ぐ事もはばかられるのに、それに対して表現では、その更に内側をもさらけ出す事が要求される訳なのです。なので、表現に対して何らかの嫌悪を感じるのは、ある意味では真っ当なのです。その拒否の感情は、まことに生物的な本能です。つまりこのような感情も、皮膚の内部を侵されない為の、一種の防衛反応と言えるでしょう。



しかし、肉体が皮膚に覆われている状態こそが日常なのです。大方は、それが当たり前だと思っています。つまり、皮膚が剥がれた姿は非日常な訳なのです。確かにそこら辺で、皮膚の剥がれた人は居ません。ましてや、衣服をまとっていないとなれば、法律に抵触する事態にもなり得ます。このように、何かをまとっていない人間は、社会で関係を作る事も出来ません。そうなれば必ずや、排除や嫌悪の対象になります。ましてや時に、存亡を左右する危機に陥る事にもなり得ます。基本的に人間とは、社会という大きな枠を集団で構成して、そこで関係性を築いて生活する動物であります。そして、その社会の内部でも人間は、先ほど書いたように、その場のドレスコードやTPOをわきまえた衣服をまといます。そうする事で相手に安心感を与えようとします。こうして、見ず知らずの他者と関係を築く為に、自分は脅威ではないという事をアピールする必要があるのです。そしてまた、これと同じような動向は、心理の面でも観られるのです。


大方の人間というのは、会う相手によって、自分の表出の度合いを微妙に変化させています。それは時に言葉使いであったり、また態度で示したりと、色々とあります。むろんその中には、衣服も含まれています。そしてそのような数多ある皮膚の代役を果たすものが、人間の個性を演出していると、先ほどにも書きました。一応確認なのですが、ここでいう個性とは、つまり演じるものという事です。なので厳然としたものではありません。会う相手によって、いかようにも変化していくものというニュアンスこそ、ここでいう個性です。そしてそれは数種のストックが必要になります。そのストックを駆使し、面々に応じて使い分け、それぞれに対面していくのです。



しかし、人間もまた「肉体」に宿る存在です。幾ら社会的動物とはいえ、そこには、おのずと肉体と対峙しなければならない場面がポツポツと現れるわけです。例えば食欲。人間は食物をこの体内に取り入れて、なおかつ吸収しなければなりません。そして要らないものを排出しなければならない訳なのです。


そして睡眠欲です。人間の肉体は、そのままでは保ちません。四六時中、肉体を稼働したままでそれを維持するのは、不可能なのです。なので定期的にメンテナンスにかけなければならないのです。日頃、この肉体には様々な情報が外部から飛来してきます。それらは刺激となって体内のあらゆる場所に記憶となります。それらの大半は蓄積されるのですが、その量は膨大なものです。だからその時々に応じて休眠して、その情報を処理しなければなりません。その一環に睡眠があるのです。外界から飛来する情報は、基本的に雑然としたものです。そうノイズがほとんどなのです。


そしてその雑然さが身体の中で膨大になると、人間は生きる事が不可能になります。そもそも肉体とは、本質的に組織です。組織というのは、ある程度の秩序と統制が必要なのですが、ノイズは四六時中外界から飛来してきます。だから身体はそのノイズをなるべくキャンセルして調整しようとします。そのメンテナンスを一任するのが睡眠なのです。


このように身体は、上に挙げたようなバイアスを、幾つも持って生きています。しかしそれらが必要とするのは肉体レベルのものだけではありません。例えばペルソナの問題です。ペルソナとは仮面を意味する言葉です。心理学的には相手と関係するために自分を装う、そのためのツールといえるでしょうか。人は相手に安心感を促す為の一貫として、このペルソナを使います。またこのペルソナは相手との距離間によって強弱があります。親しい人には、ペルソナの割合は弱くなりますが、対人関係が社会的になれば、それだけペルソナの役割りも大きくなります。それは多数の人間と関わるか、そうでないかとの違いです。つまりその人の社会的な管轄が拡がれば広がるほどに、そのペルソナの役割りもより重要になってきます。

 

ここを一つのポイントに、これから先を詳述してみましょう。社会的に対人関係が拡張した際に、その人の持つべくTPOやペルソナの必然性が増していきます。また、その規模に比例して、ストックすべき種類も多くなっていきます。つまり、まとうべく衣服がそれに応じて分厚くなっていくという訳です。しかし、だんだんと分厚くなって重くなる一方の衣服は、その根底にある生の皮膚をどんどんと圧迫していきます。そうなればその圧力によってグイグイと首を締めるように、息苦しくなってしまいます。そして仮にその状態が続けば、精神衛生に支障を来すでしょう。これは、本当の自分というのが、何が何だか分からなくなる、という心境に陥りかねないという事です。



そして、今の説明は物理的解釈としても有効なのですが、実は心理的釈明としても有用なのです。このように、それでも分厚くなるのが止まらない仮面は、とうとう自分の実の姿さえもあやふやにしてしまうことでしょう。自分を着飾るあまり、本当の自分を見失ってしまう、これこそ、ペルソナが過剰に作用する際になり得る、最悪のシナリオなのです。


しかしこの事は、まことに逆説的なのですが、むしろ、この人間の住む世界が、社会的に成熟しているのだとも言えるのです。しかしそれでも、それに伴い様々な仮面が、皮膚本来の役割りを超越して、常に四方八方に、自分という個性を演じ続けなければならない、という状況をも生み出しているという事でもあります。このように、社会生活を営む為に、本当の自分を押し殺さなければならない、という弊害を、現代の過剰さは、また生み出しているのです。



最初に紹介した通り、生物学的に皮膚とは、外界から身を護るためにある臓器です。しかし人間は、物理的環境に対処する為の皮膚という臓器を、さらに進化させなければなりませんでした。それは、人間の社会性の発達によるものが、その第一の動機だと考えられます。自然界で、または人間同士の社会生活で生き残る為に、その皮膚を更に発達させる必要があった。やがてそれをより深化させ、とうとう、より観念的な皮膚へと、進化を遂げる事となったのです。そして、その動向は必然的に「衣服」へと、その意義を向けざるを得なかったのです。そう、進化の過程で人間は、自らの意思で新たな皮膚をまとったのです。すべては社会という集団を維持する為にです。そう、そのようにして人間が自然界で生き残って行くための術を会得しようとしたのです。


人間というのは野生の動物のように、それ単独での生存は不可能です。だから大勢で群れて、人という種を護ろうとするのです。しかも、ごく少数の群れでは、人間の持つかつての危機本能は満足しなかったのです。一つの群れが、無数に集まって集落を作り、やがてそれらが村になり町となり、現代では国またそれ以上のグローバルの単位にまで、社会性が拡張されてきました。これらすべての動向は、人間が生き残る為の術なのです。

しかし、今お話ししたように、危機回避の本能が人間社会の本質なのだとすれば、特に現代的では、未だにその恐怖心だけが、無尽蔵に膨れ上がり、とうとう社会という存在が脅威となるまでに、膨大になり過ぎたのではないか。そう現在では、もはや生きる事の目的自体が過剰なのです。その過剰さの中では、必然的にふれあう人間の数も甚大に増えて、とうの社会もより複雑に怪奇化します。そして、それだけの領域を担うための駆使すべきペルソナやTPOも、それ相応の数が必要となったのです。しかし、そこには必然的に自己との葛藤が生じます。それは自己と仮面との間に、決定的なズレを起こすからです。おそらくは、ここにこそ大方の現代人の葛藤が表現されているような気がします。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1

あらゆる生物には「皮膚」という臓器があります。この皮膚を通して、生物は、敵味方、必要不必要を識別して、個体を維持しています。皮膚とは境界です。それを基準に、要るものの世界と要らないものの世界が、峻別されている。しかし、そんな要らないものの世界から要るものを得たりしている。つまり皮膚とは税関のようなものともいえるでしょう。そうして外と内との交流が皮膚を通して、日々行われている。そう、外部から要るものを得て、内部の個体を維持する、それが皮膚の役割です。

 

また特に、人間に関していえば、この皮膚という臓器を一つ取ってみても、そこには様々な意味合いを含意させています。生物にとって、体表に皮膚があって初めて、他の個体に触れる事が出来ます。基本的に皮膚とは、個体を保つ為の防御壁です。また別のところでは皮膚とは、様々な個体との出逢いを生み出すものでもあります。そう、外部と内部が接触する場所。そうした出逢いのきっかけとして、皮膚という臓器は、その意義を持ち得るのです。

 

自がある所に他がある。皮膚とは、そうした出逢いのきっかけとなる臓器です。それは皮膚があって個体が生存する事が出来るという事、また、そうする事で他に触れる事が出来る。皮膚とは、こうした出逢いを円滑にする円滑油の役割があります。このような作用のその証拠に、この皮膚という臓器が無い状態、例えば赤く血の流れる肉がさらけ出された箇所には、普通触れようとはしません。なぜならその状態を気味が悪いと感じるからです。

それと一緒で、皮膚の無いあやふやな個体に、人間は恐怖を感じたりします。皮膚の無い状態、まさに実態の伴わない存在に、人間は本能的に恐怖を感じてしまうのです。人間は得体の知れない影の存在を恐れる習性があります。例を出すとすれば、中身のなんだか分からない箱に手を入れる時に感じる恐怖などにも、それが表れています。何か居るのに、それが何かが分からない。輪郭の無い影に、ばっと呑み込まれてしまいそうな恐怖を感じるのは、それに明確な輪郭が無いからです。

 

そしてその代表的と言えるのが、幽霊の存在です。人間や他の動物は、実態の不明なものに出会うと、まずは触れたり、臭いを嗅いだりして、その不明な実態に輪郭を持たせようとします。輪郭を持たせるとは、理解するという事でもあります。得体の知れないそれが理解出来て、初めてその実態を把握し、物事を了解する事が出来るのです。皮膚とは物事を理解する時の輪郭を与えます。またその輪郭こそは、皮膚の表象であります。物事に輪郭を持たせる事、それは皮膚に覆われた個体を識別する方法の延長にあるものなのです。

 

また、それは逆に言えば、皮膚とは、自分という存在を明示的にする手段でもある訳です。つまり皮膚という臓器が、きちんと作用している事が、自分を自分足らしめている動機という訳なのです。

 

このように、自他の混乱を起こさないように、人間の身体には皮膚という組織があります。医学的には皮膚とは、体内組織を外界の侵入者から護る為のものです。しかしまた、これを別の観点から更に観ると、皮膚と一言に言ってもそれ自体には、様々なアイコンが表象されてもいるのです。表象としての皮膚、例えば人間は、皮膚の上にさらに衣服をまといます。動物では、まずこのように行動する個体は居ません。では、この「衣服」とは、一体なんの表象なんでしょうか。皮膚の上に衣服をまとう、そうこれこそは人間の社会性の発露なのです。

これまでの歴史の中で人間は群れを作って、人類という種を保存して来ました。人間は基本的に、群れる事でしか、身を守る手段を知りません。だから、このような群れからはぐれる事は、まさしく死を意味していたのです。もしかしたらこのような境遇から、人間は、衣服をまとう事を憶えたのかも知れません。衣服こそは、それをあえてまとう事で、自分の身元を明らかにする役割を持つのです。

 

しかし衣服とは一般的に、単なる体温調整の役割として語られがちです。でも別の側面には、衣服をあえてまとう事で、その人間がどういう人物なのか、どういう属性なのか、またどの地位に属しているのかという身分を釈明する役わりを負っている訳なのです。自分とはどういう人物なのか、そう釈明して人間は、関係性を繕う事で、社会性というものを発達させて来たのです。それは人間の群れを維持するための役割を負っていたのです。

 

その他にも、人間は様々な皮膚の役割を、色々なもので代行しようとします。その一つに「心理面」でのものがあります。時代が進み、人口も増大し、群れが社交の役割を演じ始める頃にまで、関係の高度化が進行すると、今度は、衣服をまとうだけでは、関係性を繕うのにままならなくなってきたのです。つまり、自らの行いを装う必要性が出てきたのです。この時、人間は自らの心を装うようになります。この心の装い、それを心理学的にはペルソナといわれています。

 

そしてある時には、特に社交的な場での服装などのしきたりの中に、ドレスコードといわれているものもあります。そして更に、人はよくその場にあったTPOをわきまえろと忠告します。このように人間はその都度、その場その場に似合った衣服に着替えなければなりません。そしてその場にあったTPOもわきまえないといけません。そう、このペルソナもドレスコードも、またTPOも、拡張された形での「皮膚」の表象なのです。そうして表象された皮膚を「まとう」事で、関係性が高度化した社交などの場の行いがスムーズになります。

 

またそういう広義の範囲を含めると、この社会でも、他にも様々にこの表象された皮膚という作用は機能しているものなのです。身にまとう。このような、その場その場に似合った様々な衣服を媒介して関係を作り、人間は社会を構成します。とどのつまり衣服は皮膚と同等な訳です。皮膚をまとう事で肉体が維持できるように、衣服を身にまとう事で、社会生活を円滑にするのです。

 

また皮膚とは、自分と他者との媒介の役割をも持ちます。他者と初めて会うなり、人はまず、相手の衣服を見て、その相手が安心できる存在なのかの確証を得ようとします。そして心理面でも、まず相手に安心感を与えるために、安心出来る自分を演じようとします。

 

皮膚とは、このように相手と関係を始めるためのきっかけとなります。全身の皮膚が剥がれ、血のドロドロ滲む姿に、普通人は恐怖を憶えます。しかしそれは心理面でも同じなのです。また、ドレスコードやTPOをわきまえないというのも、ある意味皮膚の剥がれた姿といえるでしょう。そしてきちんと皮膚のある安心できる相手とは、繋がろうとします。色々と質問を投げかけたり、自己紹介をしたりします。それが自己の表出です。

 

皮膚による媒介と自己の表出、これらは作用反作用の法則と同じです。自他との境が明瞭になって、人間は他者を知ろうとするし、自分を曝け出そうとします。そのように人間とは、皮膚という媒介により、相手を感じ、自分というものをスムーズに表出しようとします。そう、すべては相手と円満な関係を築くための手段という訳です。

 

これまで見てきたように、人間とは関係を主軸にする動物です。そして人間個人の外縁には社会というものがあります。この社会とは、人間という種が、生存する為のコロニーです。また時に、この他のコロニー同士が出逢う事もあるでしょう。その時のコミュニケーションの役割も、そしてそのコロニーの位置付けや、縄張りという意味では、それもまた皮膚の表象と言えそうです。そうして人間は、社会的な関係を円滑にするために、また個人的な関係を安心に行うために、相手に自分は脅威ではないという事をアピールしつつ、より大きな社会を形成しているのです。そしてその相互作用の最中で、徐々に浮き彫りになってくるのが、個性というものなのです。

 

例えば、皮膚という臓器が、外界からの侵入者を防ぐ役割りを持つものなのだとすれば、その皮膚に触れる事が出来る存在は、安心出来る個性という訳なのです。だから、人間は自分が脅威でない事をアピールする為に、様々な方法で自分を着飾り、相手に安心感を与えようとするのです。

 

また日常の生活では、自分なりの安心性を表すような衣服で着飾り、他者と対面します。例えば、相手の服装に少しでも奇妙さを感じると、人はその相手に嫌疑の眼を向けます。それは、その人が単に用心深いのではなく、そもそも皮膚という臓器の持つ、本能的な心理的作用であるのです。この事から、社会生活を送る上では、衣服で安心感のある自分を表出してこそ、初めてその人は他者と対面が出来るという訳なのです。着る衣服で安心感を演出して、かつその安心感の合意の上で、無数の人と繋がっていく。いうなれば、それは人間という個の保存本能のようなものなのでしょう。

 

 

悲劇的リアリズムを生きる 〜IS(Islamic state)と若者〜 Part2

悲劇は日々繰り返される。その怒涛なる世界の内側で、まるで首を締め付けられるような苦しみに、のたうち回る彼らの呻き声が、このすぐ傍にまで滲み出している。しかしこの悲劇を視まいとする群衆の犇めく自惚れが、その救いを求める彼らの手を払い退けるのだ。群衆は、自らの保身のために、救いを求めるその手を突き放す。そして群衆は彼らに唾を吐き捨てる。臭いものには蓋を。群衆は、彼らが被る現実の悲劇を捩じ曲げ、人間世界にあまねく浸食しているネガティブを拒否する。そして彼らの悲鳴を、まるで掻き消すかのように、錯綜する祭り囃子。群衆は、すぐ傍にある筈の悲劇をも、まともに見ようとしない。そんな陶酔した群衆の一人一人の、その眼は赤く充血している。どこまでも終わり無く、昂揚し続けるテンション。祭り囃子は、その度に錯綜し、群衆の眼をさらに赤く充血させる。そこからは、誰一人として降りる事も、待ったをかける事も出来ない。そして躍動する群衆を映すその影には、今にも生命の光を掻き消されようとしている、彼らの虚ろな眼差しが映っている。

 

自分の住んでいる世界が、壊れて行く。ある日、音も無く。それはどこからともなく忍び寄り、あなたの首を掻き切るかもしれない。あなたは、自分の住んでいる街の景色が、徐々に色褪せていく瞬間が、本当に存在するのだろうかと思われるかもしれない。これまであなたが、この場所で生まれ、それから、物心がつくまでの間に縦横無尽に過ごしてきた、この街との信頼関係、そして絆。とてもすばらしい事だ。ここまで、何の脅威もなく過ごせてきた、かけがえない時間と想い出。そこにはなんの疑いの余地は無く、大切な人達と、出逢えるだけ出逢えた想い出がある。その確かな温もりは、あなたの心の裡で柔らかく脈を打つのだろう。その随所随所のあらゆる瞬間も、これまで心から大切にして過ごせてきたのなら、そんなあなたは大変すばらしい。

 

そう、平凡なるこの日常の何気ない流れも、そしてあの景色の何もかもが、わざわざそう意識しなくても、この街の日常への信頼が、これからも永遠に続いていくものだと、本当にそう思えているのなら、あなたはとてもすばらしい人生を歩めている事だろう。

 

それならば、あなたにぜひ尋ねてみたい事がある。いつかそれらさえもが、いとも簡単に崩れ去る瞬間が訪れる可能性が、少しでもあるとすれば、その時、あなたはどう思うのだろう。そんな事は、決してあり得ない。あなたは、この質問を跳ね除けるかもしれない。そう怒りを交えながらも。しかしそれでも、果たしてそう言い切れるだろうか。その全てを信じ切れるだろうか。この街を、そしてこの世界を。あなたはそこに、温かに脈打つ安心感と、世界への信頼があるのかもしれない。しかし少し待ってほしい。それならば、たった今、あなたの目の前に暗然としているものはなんだろう。

 

あなたの目の前にあるテレビでは、連日、犯罪に手を染めてしまった不幸なる人々が、大量の報道カメラの前に頭を垂れて、連行される姿が映し出されている。それも次から次に、その数はどこまでも知れない。そしてアナウンサーが原稿を、次々と読み進める度に、その不幸な人間に向ける報道カメラのフラッシュは、テレビ画面全体を覆う。そう瞬く間に、画面は鋭い閃光に満ち溢れていくだろう。では、あなたにはこの光景の意味が解るだろうか。

 

それでも、あなたはこの世界を信じられるだろうか。何気ない日常の中で信頼感を満たしている、あなたの立つこの足場が、とある簡単なきっかけで脆くも崩れ去る運命にあるのだとすれば。それでも何気ない日常が、これからも続いて行くものだと確信するのだろうか。ならばもう一つ、尋ねてみたい事がある。あなたは今、幸せですか。もしそうなら、それは果たして本当ですか。不幸を写し続けるテレビの閃光は、あなたの脳裏に問いかけている。そう、もうしかしたら明日のまったく同じ時刻に、今度はテレビの画面越しの報道カメラに頭を垂れ、この街の全てに絶望している、あなたが映っているかもしれないという事を。そんな光景をあなたは想像できるだろうか。そう、幸せな生活を送る何気のない日常が、もしかしたら、近い将来、崩壊するかもしれないという事を。つまりは、あなたの日常のあらゆる人間関係、常識、そしてあの頃の想い出さえも、いつ何時、その全てが崩壊するかもしれないという事を、果たして、あなたは想像出来るだろうか。

 

あらゆる安定が、敵意に満ち瓦解していく時、悲劇的リアリズムは、音も無く発生する。この北大生の口からは、未熟であるが故に不感症に陥った、愚鈍な現代青年の闇は一切感じられない。その語り調は何か乾いていて、そしてどこかよそよそしくもある。彼の紡ぐ言葉は、とても静かだ。しかし彼の発する言葉の隅々には、肉体的リアルの消失感が滲み出ている。この虚無感こそが、行き場のない焦りへと、駆り立てるのか。また、別にこのまま死んでもいいのだ、という乾いた静けさを醸すのとは、誠に対照的に、躍動を満たすような戦闘への憧れと、その熱意も見せているのだ。果たして彼の内部に持つであろう、激しさに滾るようなこのギャップとは、一体何だろうか。それは生と死が、彼の自己同一性の裡でせめぎ合いながらも、それらは一切混じり合う事もなく、むしろ背反し続けているようにも見える。

 

つまり死を望む「静寂」と、戦闘を望む「躍動」との、一見、互いに背反し合う筈の、生と死の両極端を司る感情が、彼の裡では、そのどちらもが、高いエネルギーを保持しながらも、互いに拮抗し合っているのだ。彼の言葉を聴くに、そんな彼とはまさに、この世界に見切りをつけ、死へと消えて行きたいという風にも取れる。しかしまた、それでもこのような現実の不条理の最中にでも、肉感的な生を実感して行きたいという風にも感じられるのだ。

 

彼の裡では、生と死のその両方が、相当なエネルギー量を持っている。そしてその膨大なポテンシャルが、渇いた現実の中で、感情がどれだけ虚構に苛まれている渦中にあろうとも、それでも熱意を持って躍動しようとしている。それこそ彼の強固なる意志へとリンクしているのかもしれない。そんなエネルギッシュな生と死が濃厚に満ちているジレンマこそが、彼を、IS(Islamic State)が創り出すユートピアに対する渇いた熱意へと駆り立てるのだろうか。彼の裡(うち)の「生と死」は、それらがエネルギッシュにただ林立しているだけではなく、その二つは、濃厚なるジレンマを形成しているのだ。

 

しかし、こんな絶望だけの世界にでも、確かな意義を見出そうとしている。その手段が、例え破壊をも孕む戦闘であろうとも。彼は必死にこの世界に確固とした居場所を求めている。恐らく、彼は「この世界」に対して、基本的な信頼が厚いのだ。ここまで世界に絶望しようとも、確かな安心感を求めているのは、それこそ、彼がこの世界にそれほどの信頼を寄せていたという、かつての名残なのではないか。あの頃の安心と信頼は、命共ども、全てを消し去ろうとする行為の邪魔をする。それは、この世界への厚く信頼に満ちた愛情のようなものだろうか。彼は、かつての安心を、IS(Islamic State)の創り出すユートピアに求めている。そこではかつての彼の安らぎが揺らめいている。IS(Islamic State)という夢が、彼の乾いた心に、そっと寄りかかる。彼にとっての確かなもの。それはかつて彼が当たり前に送っていたであろう、何気ない日常の延長のようなものなのだろうか。例えそれが戦闘という悲惨さの中であろうとも、そこには、とても肉感的な魅惑が満ちているのではないか。また却ってこのようなかつての信頼感こそが、彼が完全なる死に呑まれるのを、阻止しているのではないか。

 

このように悲観的リアリズムは、現実で起こるあらゆる現象の内で、あるきっかけでその安心と信頼が失われ、そしてそのような名残を引きずりながらも、むしろその過去の温もりに縋ろうとして、すでに荒廃してしまった世界を生きていこうとする中で生まれる。それはいうなれば、死の裡に生きるという事である。例え、世界への信頼が死に瀕しても、その心の根本に沁み渡った信頼感だけが、亡霊のように生きている。そしてその形骸化した筈の信頼が、過去の温もりの中で生き続けているのだ。だから簡単には死に切れないし、むしろその過去は、もうすでに触れられないが故に、大きく誇張されてしまう。そしてその誇大化された過去が、ユートピアという夢に変遷して行き、ついにはその幻想の裡で、大幅に理想化されてしまう。

 

彼の静かなる言葉には、厚く信頼していた今までの世界が、もはや確かなものでは無くなったという絶望感がある。また、そんな現実世界のあまりの脆さに失望している。しかし信頼感の充実していた現実の中で、のびのびと構築されて来たであろう、彼のリアリティは、突然の瓦解に見舞われる事態となった。一体何がそのきっかけだったのかは、一切触れられてはいない。がしかし、とうの彼は比較的に高学歴であり、他の学生よりかも、彼なりに世界が幅広く見えていたのではないか、という事しか推測できない。

 

そして、世界への絶望は、やがてこの世界との信頼感と共に育まれて来た、彼のアイデンティティにも、同じく危機が迫る事になる。彼のこれまで育んできたアイデンティティは、世界への信頼の崩壊と共に、その土台から脆くも、その全てが崩れ去る事になるのだ。世界への信頼と安心を元に、共に育まれてきたアイデンティティは、安定する世界と共に生きていた。だからその世界が根本から瓦解する事は、彼のアイデンティティに打撲のような脅しを受ける事になる。故に、彼は世界への絶望と共に、その世界と共にあった自己同一性もが、その崩落を共にしたのだ。事実、そのような境遇に置かれた人間は、普通、それからを正気で生き抜く事は、不可能である。

 

例えば、あなたの友人の態度が豹変し、突然、あなたが居なかった事にされたらどうだろう。あなたの信じている考え、嗜好の全てを、いきなり否定されたとしたら。また、あなたの家族、友人、そして同僚など、あなたの周囲に居た全ての人々から、突然、あなたを全否定するような言動、または態度を取られるとすれば、果たしてどうだろう。かつてあなたの周りで慕っていた人々は、あなたを置いて去って行く。やがてそこに遺るのは、あなたがかつてその輪の中に居て、その友人達との交友を楽しんでいた、その「過去の温もり」だけであろう。そして尚の事、その温もりを、忘れる事が出来ないのだとしたらどうだろう。あなたはまた別の場所へ、その温もりの代理を求めにいくだろう。そう、あの時の温もりを引きずったまま、あなたは誇大化された過去と共に、すでに荒廃し切った世界の中で、それでも生き続けるだろう。そう、信じられる友人も、同僚も、また家族さえも居なくなってしまった、このちんけな世界でも。そうこれこそ、この世界に対するかつての信頼なのである。しかしそのような形骸化した世界で、あなたは、正気を保って生きて行く事が出来るだろうか。とうの彼はそれが出来ず、異国の土地で、ジハードに赴き、敵に銃を突きつける事を選んだ。それは彼なりの生きるという事の、最後の選択であったのだろう。

 

例えば、現代の潮流では、相対主義が勃興し、その根はよりこの世界の深部へと拡がるにまで至っている。そしてその時流が徐々に世界を侵食するに従い、「善」と「悪」は共に絶対的な指標ではあり得なくなってしまった。つまり「善」とは「悪」とは何か、それを無限に問うのが現代なのである。それは自分の信念に支えられて来た正義が、いとも簡単な変革によって、無限に覆される世界なのだ。つまり現代の資本主義の立場も、実は確かな地位に永続しているような希望なのではなく、それはいつでも転覆の危機に晒されているのだ。そう現代にとって資本主義とは、たかが脆い足場の一部分に過ぎないのだ。

 

ある日、その優しい世界中の眼差しが、突如として、悪辣さへと豹変し、あなたに牙を剥き出す。今とは相対性の時代である。そうこれは、それまであなたを優しく包んでくれていた眼差しが、突然、あなたに襲いかかる事を予言しているのだ。そんな現代とは、あらゆる物事が、相対性の中で流浪する時代である。そのような、もはや絶対の無い世界では、今包まれている安心も、もしかしたら突然、近ければ明日にでも、あなたを突き放すものになるかも知れないのだ。昨日信じられていたあらゆるものが、今になって、いとも簡単に目の前から崩落して行く。全ての物事は、相対性のなす流動の中に、壊れて行く定めにある。そうそれは、あなたの何気ない日常も、そしておそらく、彼が過ごして来た過去の厚い信頼もが。

 

しかしその不安定になった世界でも、あなたは単純には死に切れない。なぜなら、あの頃の安心感を、今でもあなたの身体が憶えているからだ。一度その温もりを感じて受け入れた体験があれば、なおさら、簡単には裏切れないものである。それは、突然あなたを突き放した大切な人に対しても、そうすぐには簡単に、心から見限る事が出来ないのと同じように。また、その大切な存在の規模が大きければ大きいほど、そのような傷はいつまでも、あなたのぽっかり穴の空いた心に残り続けるだろう。そしてそれまでの温もりを、また別の形で求めるようになるだろう。そう、今抱えている虚しさを、また別の存在で埋めようとするのだ。

 

かつての世界への信頼感が、その信頼の厚さが故に、自殺に駆り立てるまでの決意を躊躇させる。そしてその過去の感覚が、すでに失われたが故に、歪んだ形で誇大化され、あなたはその誇張された夢の中で力無く浮遊しながら、いつまでも、優しい幻想を見続けるのだ。それはまさしく、死の裡で生きているという状態だ。彼が、IS(Islamic State)にユートピアを求めるのも、またそこで破滅的な生を生きようとするのも、そこにかつての信頼していた世界の偉大さを投影するからだろう。また、そのような絶大な信頼感が故に、それはより大きな衝動になっているのかも知れない。たとえそれが、異国の土地での凄惨な戦闘であろうとも、そこに彼は、偉大なる世界が崩れ去った後の救いを、求め続けるだろう。この世界が例え終焉に伏したとしても、その死の裡で、しぶとく生き続けようとする。そう、今では遠い過去となったあの日、確かであった世界の優しい幻影を見ながら、北大生の彼は、これからを生き続けるのだろう。このような事実こそが、悲劇的リアリズムを更に歪んだものにしている。

 

今回参照した記事の中に「これからもイスラム国への賛同を示す若者は、後を絶たないであろう(※)」という予言があるのだが、それは、IS(Islamic state)という、凄惨なユートピアに縋り付いてでも、崩れ去った過去の安心感を取り戻したいという、現代の若者の絶望を言い表しているようにも感じる。崩れ去ったモノの存在が大きく、かつそれが大切であると感じていたものほど、その代理となる夢はより増大され、それは歪んだ形に化ける。そしてあなたはそのゆりかごの中で、虚しさをどこまでも埋めようとするだろう。しかし、それにより心が完全に満たされる事はない。なぜならあの時の優しい体感は、もう二度と、この世界に戻っては来ないのだから。

 

このように、IS(Islamic state)という存在は、安住の居場所を探し続ける彼らにとっての、最後のユートピアなのだろう。しかし、これまでの話とは、そんな彼らに我慢の精神が足りず、思考が短絡的になっているのとは、少し次元が違う。むしろ、彼らの見ていた世界は、とても雄大なもので、むしろ心は満ち足りていたのだろう。それも、我々の想像が及ばない範囲で、リアルに。しかしそこの部分は、緻密に文字で描写出来るほどの技量も無いし、またそれらは言葉以前のより深部に沁み渡る、人間性の根幹を形成するナイーブな部位であろうとも思う。そこには、言葉として簡単に表現出来ない繊細なる人間の感情が存在していると感じる。だからここでは、その詳述を避けようと思う。

 

そして凄惨な戦闘をしてでも、再びその過去の安らぎを手に入れたいという、彼らのこの世界に対する貪欲さこそ、彼らの信頼していたかつての世界の重要さを物語っているように感じられる。むしろ彼らには、人間的感情を豊かに包摂した、ある意味でのピュアさがあるように感じた。彼らの感情がピュアであるからこそ、素直に傷つき、そして深くこの世界に絶望したりするのだろう。絶望というのは、ある意味では、期待の裏返しでもある。だからこの裏返しの作用にこそ、彼らがこの世界に対して、厚く信頼寄せていた、真の動機が見えるようだ。それは絶望から見える、彼らの本来の姿なのだろう。

 

しかし、IS(Islamic state)のような、一見、煌びやかであるそのユートピアにも、またその安定を崩壊させる、退廃の影は映っているのだ。相対性の世界は、いずれ、そのゆりかごさえも絶望に変えるだろう。そう、その終わる事の無い相対性の循環の中で、この世界への信頼感は、どのような強固さであっても、いずれ粉砕されてしまう運命にある。ここは諸行無常の世界。それならば、もはやこの世界に信頼の土地を求めるのは、終わる事の無い虚構を見る事と同じなのだろうか。やがて北大生の彼には、彼のジハードを遂行する瞬間が訪れるだろう。しかしやっとの事で手に入れたその安心も、どこまでも広いこの優しい世界は、これからも無限に裏切って行くのだろう。そう、そんな彼らが偉大なる過去から、その心が完全に解脱出来る、その時までは。

 

 

〜IS(Islamic state)と若者〜 

参照の記事

北大生は違ったフィクションに生きたかった
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20141008

北大生支援の元教授インタビュー
公安の事情聴取を受けた 中田考氏が語る「イスラム国」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4290

正義が悪を欲する世界 〜IS(Islamic state)と若者〜 Part1

かつて2001年9月11日に、同時多発テロがアメリカで起きた。その際、当時のアメリカ大統領が、この報復処置としてアフガニスタンへの侵攻を開始した。そしてその翌年、当時のアメリカ大統領が一般教書演説にて、当時のイラン・イスラム共和国イラク(バアス党政権)などを「悪の枢軸」と、声高に罵り、国際社会に対し、テロリスト根絶への強い同調意識を求めた。

 

その当事者であるアメリカを始め、先進国の陣営は、何かとイスラムテロリズムを、直接的に結び付けようとする事が多い。連日報道される、武装した過激派の姿。確かに、そのような狂気の一面も、彼らは持ち合わせているのだろう。でもこのような狂気は、どのような宗教でも垣間見る事が出来る。しかし、どのような宗教もそのような一面のみで、括られる事は決してない。だが、同じ宗教である筈のイスラム教は、また違った扱いをされているような気がする。なぜイスラムテロリズムとが、闇雲ながらも同一視されるのだろう。各国のメディアがこぞって、いとも容易く、彼らをそのようにラベリングするのには、何か特別な意味があるのだろうか。

 

しかし、イスラムの社会的な性格とは、実際どのようなものなのだろうか。我々が、イスラムテロリズムとを、容易に結びつけてイメージしてしまうのは、実際の彼らの素顔なり、その生活の姿を、ほとんど何も知らないからではないか。そんな我々は、彼らの実情を一切知る事もなく、そのイメージを安易にテロリズムと結びつけているのだ。なぜなら、一般的なメディアで、イスラムが取り上げられるのは、多くの場合、爆弾を炸裂させる過激派のそういう狂気の一面であって、むしろそういう情報こそが、我々が目にする彼らのイメージの、ほとんどを占めているのだ。だから実際我々は、イスラム教といっても、イスラムの宗派の中でも過激派以外に、必ずや存在している筈の、穏健なる宗派の一面すらも知らない。また、その一切を、知らせるべきメディアからは、まるで知らされてもいない。そんな状況の中では、彼らの素顔に触れる機会も、ろくに得られず、また彼らを知る手がかりさえも、まともに見出せてもいない始末だ。

 

そんな情報の貧困なる状況に晒されている我々は、今こそ、イスラムという宗教の本当の存在を知り、その姿に触れなければならないだろう。また世界中のあらゆる場所で、ネット・インフラが飛躍的に整っていく中で、世界の可視化はどんどんと進んでいくだろう。この事実は、我々に突きつけられる抗えない現実である。しかしそんな動向の最中で、我々は、本当のイスラムの姿を知る必要性に、これから幾らでも迫られるだろう。そうこれからは、決して知らないままでは済まされない、世界のダイナミックな流れに、身を委ねる事になるのだ。しかし、自己の自律があやふやなままで、このような巨大な波に晒されるのは、とても危険である。またそれを放置し続ければ、これからは、心身共に危ない事態に巻き込まれ兼ねないであろう。


つまりは今ここで流布されているイスラムのイメージとは、あるべく彼らの原型が、なんらかの作用で歪曲されたものだったのだ。そしてそれが我々に届く頃には、すでにそのイスラムの真実は、まったく失われていたのだ。

 

またそれが事実なら、そのような歪曲化された誤った情報でしか、我々は、イスラム教の姿を知らないでいるという事なのだ。つまり我々が知っているのは、彼らの誤った姿なのだ。それは今こそ払拭されなければならない。そう我々は、メディアが流通させている彼らの誤ったイメージではなく、本当のイスラム教の姿を、知る必要性に迫られているのだ。

 

それにイスラム過激派は、なぜ先進国を憎むのだろう。彼らは、先進国に対し、ジハードを掲揚(けいよう)し、そして自身のテロリズムを正当化しようとする。しかし、国際社会が、テロの根絶を称揚するキャンペーンを繰り広げている昨今、そんな彼らの主張するジハードが良い意味で報われるのは、到底、望めないそうにもない。それでも、そんなイスラム過激派を生み出すような土壌を造り上げた犯人とは、資本主義を信仰する先進国である。それは泥沼の歴史である。また今日表面化している史実とは、また見えない形で、事件の一端を、更に担っていたという事実も、これから幾らでも発掘されるだろう。このような罪は、決して簡単に拭い去れるものではない。そして、そのようなイスラムに対する先進国の愚行は憶測ではなく、数多くある歴史書が明示している史実である。

 

現代のように、高度資本主義と形容される時代において、そのあちこちで経済成長神話のペンキが剥がれ始めている。そしてその剥がれた絵の中から、たくさんの歪みや疑問が浮き彫りになりつつある。やがてそのような不穏なる空気は、人々に将来への不安を感染させ、この渦中に居る人々を、やり場のない憤懣に染めてしまう。そんな現状にとって、イスラム過激派という悪のイメージは、このような不安定な群衆にとって、ストレスを発散するのに格好の的となる。

 

そんな悪者の脅威から、不安定な先進国は自身のテリトリーを死守し、この荒廃したリアルに、なんとか現実感を持たせようとしている。世の中に蔓延る、あのようなイスラム過激派の悪いイメージこそ、資本主義を信仰する先進国が、その内部から腐食していく現実に、無理矢理にでも昂揚感を持たせようする為のものではないか。それは、希望を失っていく自身を奮い立たせるための、虚偽のストーリーなのである。そう、瓦解していく粗末な現実に怯え、その上で自己正当化を図るために、腐敗していく身体が非現実を欲しているのだ。

 

その壊れた身体が、過去の栄光とともに飢えいく非情さの渦中で、イスラム過激派が、先進国の圧倒的な軍事力の前に、崩落していく様を嗤う。そうして瀕死の身体を奮い立たせているのだ。それは実に簡素な自己保守のプロセスである。しかしその効果の程とは、攻防戦を繰り広げている「その間」だけの刹那的なものでしかない。つまりイスラム過激派という「悪の象徴」こそは、その裏を返せば、資本主義がそれほど自身で統括する安心と信頼を、徐々に失いつつあるという事である。寧ろその切迫感を、イスラムテロリズムの図式は、くっきりと浮き彫りにしているのだ。

 

「正義」と「悪」は、ただその辺に分散しているものではない。それは危機に瀕した「正義」が、自らの現実感を取り戻そうとした時、無作為に「悪」は創られるのだ。正義の名によって袋叩きにし、やがて悪が瀕死に陥り、彼らのもがき苦しむ様を眺めて嗤う、先進国独特のこの行為こそは、正義を称揚する資本主義にとっては、改めて自身の正当性を体現するものと言える。そして正義の名において制裁される、イスラム過激派のそのイメージこそが、歴史的な運命の果てに凋落して行かざるを得ない、資本主義の断末魔を具現化しているのだ。このように悪が苦しみもがく様を、先進国が見て嗤う、その刹那的な昂揚感こそが、再び自身の確信を取り戻すためのカンフル剤になっているのだ。

 

正義が声を高らかにする時、それはあらかじめ根絶されるべき悪が、そこにあったからではない。それは、リアルを失いつつある資本主義のイデオロギーが、再び確信とその統率力を取り戻すために、彼らにその「非現実」を求めるからに他ならない。つまり、国家にとって国家が悪になり得るのなら、キリスト教に所以のある資本主義にとって悪になり得るのは、同じ宗教という構造を持つイスラム教であるという事だ。そしてその中でも分かり易くキャラクターを演じる事を可能にするのが、先進国に恨みを持つイスラム過激派であろうという事なのだ。

 

現実の生活からリアルを失う。北大生の彼は、そのリアルを再び見つけるために、シリアへ行きジハードへと赴く。そんな彼を大抵の人は、おかしな未熟者だと嗤うだろう。しかし、毎年、何万人もの人々が自殺し、人間と人間が殺し合っている。そんな世の中の澱んだ空気に侵されて、徐々に窒息していく関係の中で、政府の統計によれば、300万人以上も精神に異常をきたす人々がいる。そしてその内の何割かは慢性化している。やがて精神を病んだ末に、自殺していく人々も後を絶たない。そんな中で、そこまでの逼迫感はないものの、それでもネット上には、匿名で書かれる日頃の恨みや鬱憤などのネガティブな言葉が、日ごとに勢いを増すかのように、無数に書き込まれていく有様である。このような動向は、あらゆる先進国で蔓延している。そして北大生の彼がこの記事中で云うような、現実感を失いつつあるというこの境遇こそは、今あらゆる国で共有されている資本主義の苦境とまさにリンクしている。

 

正義の旗を翻す、この荒々しい波風。それは、閉塞感に侵され、徐々に窒息していく運命の渦中でしか共有され得ない不安の声が、形になったものなのだろうか。もし、あなたの眼に、異国の土地で、悪が蜃気楼のように靡くのが見えたなら、それはあなた自身の心が不安に脅かされているからなのかもしれない。明日は我が身。そんな狂気に病んでいくこの国の住民の中で、北大生の彼の決意を嗤える者は、果たしてどれだけ居るのだろうか。