心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

サイエンスの解体とアイデンティティの行方 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.2

これまでサイエンスは、「主観」とされるものを極力排除してきた。その傾向をより強めたのは、16〜19世紀の期間だとされている。この頃のサイエンスは、観察器具による現象の観察と、幾度の実験による検証という手法を確立した時期である。これら観察器具と実験の発達によって、サイエンスは飛躍的に厳密化されていく事になる。例えば、およそ16世紀にコペルニクスによって唱えられた地動説も、天体の厳密な観察によって立証されたものだった。それから一世紀を経て、ガリレオによって発明された天体望遠鏡によって、その傾向はより厳密かつ急速に発達するに至っている。

 

こうしたサイエンスを行う際の手法が、「私的な」を排除した理由とは、なんだろうか。それは恐らく、そこに自分こそが全能であるという惑いの余地を、あらかじめ封じる為のものであったのではないかと、みやすけは思うのである。

 

世界の根源を探究するというのは、ある意味、魔境を彷徨うのと似ている。それは、自分が世界を俯瞰するという状況において、まるで、自分が世界の総てを手に取っているのだ、という感覚を憶える瞬間があるためである。それは世界を「客観視」する事を、逆に、世界を「支配」していると錯覚する事によって生じるものである。

 

そしてそれは、「思考」という行為にも、その片鱗は現れるのだ。頭の中で、深化する思考。現実のあらゆる感覚を拒否し、より深く思考を研ぎ澄ませると、不意にとある臨界に達する瞬間を迎える。それは「ひらめき」と言われるものである。やがてそれに到達し、そこに深い手応えを感じると、自分こそが世界の覇者であるという全能感に支配されてしまうのだ。

 

こうした世界の全てを堪能しきった、あらゆるものを理解してしまったという体感、それはさも強烈な体感である。更にそこでは、酔い痴れるような快感が伴う。そうした極限の思考に到達される臨界点では、輝くような「ひらめき」があり、その更なる内部には、「世界を知ってしまった」という全能感が待っている。そしてその溢れ出す多幸の瞬間に、この世の神が現れるのだ。

 

このような体感とは、いわばこの「私的な」という観点からの思考が成し得る、耽美なる極限の形なのだ。そしてこの場合の神とは、身体感覚を強烈に体感する思考的オーガズムの渦中に現れるものなのだ。思考の極限にほろりと咲く可憐な華。そのような強烈な体感の最中に、全知全能の神は、煌めくような閃光を放って、探究する者を丸ごと呑み込んでしまうのだ。

 

特に現代は、この「私的な」の領域が、社会科学を中心に、半ば全面的に流入される時代となった。特に、社会科学の領域においては、「私的な」という一観点を用いて、人間社会を複雑に構築する、ありとあらゆる現象を解明して行く手法が流行している。

 

そんな現代とは、これらは既に言われている事ではあるが、前近代において機能していた階級制や身分制などの制度が成り立たなくなった世界である。更に現在の学説にならうと、前近代的な不自由で不平等な社会構造においては、アイデンティティで個人を規定する必要は、あまりなかったのだとされている。しかしこれは逆にいえば、社会構造が絶対的であるとは、いわば、その社会構造の内側の安定性を保証するものだった訳である。

 

特に現代では、様々な属性が多様化複雑化した世界となり、自らその最中で自己を確立し続けなければならない。また人間とは、社会を集団で形成しなければならない動物なのである。そうした渦中で、絶え間なく流浪して行く構造の最中に、独立した成員としての自我を保つ必要がある訳だ。そしてさらに、こうした構造社会の中では、この社会に対して、自らが充分に果たせるであろうメリットを、常に表明し続ける必要さえもある始末である。そう自分は、この社会にとって、常に有用なのだと宣言し続けなければならない。なぜなら、かつてのような絶対的な社会構造を失った為に、今度は、個人の自律を要請されるからである。

 

複雑多様化の社会とは、言い換えれば、それだけ不安定な社会構造という事である。そういう社会で絶対性を求める事は、ややもすれば差別を生み出す事にもなりかねない。なので、こうした社会構造に絶対性を定立させる事は不可能なのである。特に、今の世の中の時流は、相対性の時代である。そういう相対性の時代では、自ずと、個人というものを、それも自ら率先して安定させなければならない状況下に、晒される訳である。個人の安定化、それが現代社会の中で生き残って行く為の、必須なる術である。

 

そしてその最中で、常に「私的な」の一観点を導入するとは、絶え間なく流動する構造社会の裡で、ポジティブにアイデンティティを確立する為の手掛かりを、有益な形で提供をしているとも言えるだろう。これはどういう事かというと、順を追って説明すると、一つに、現代では形而上を形成する余地が、もはや無いのだという事実に、その解答の一端はあると見ている。

 

それは、この社会には、様々なアイデンティティを持つ人間が、同時に存在しているという事に深く関わっている。しかも、それが常に意識される範囲にである。そのような社会では、誰かしらの発言をも、そこに曝されるべく批判のようなものが、常に付きまとっている訳である。しかもそれは、決して見えない形で、周囲から常に見張られているような体感の下にである。つまり、社会の成員全てが合意し得る現象というものが、もはや成り立たたず、そうした渦中で、さらにその絶え間のない批判の眼差しに晒される上に、アイデンティティを確立した個人を形成する必要性に迫られているという事である。つまり、形而上学が成り立つ時代の、事実上の終焉において、個人というものがより前面化されるという事である。

 

そしてもう一つのキーとは、サイエンスにおける「私的な」の流行にある。それは、「アイデンティティ」という新たな個人の時代の出現に、深く影響されている。これらサイエンスの「私的な」の流行と、時代が要請する「アイデンティティ」の確立とは、実は、密接な表裏を共有しているのだ。このサイエンスの「私的な」の導入に際しては、それらは、主に社会運動に還元された形で、広くその思考体系が共有されるに至っている。それはつまり、「かつてのサイエンス」の事実上の解体を、余儀なくされているという事である。

 

それによって現代では、幅広い範囲に、サイエンスという思想が還元される契機にもなった。そこではもはや、かつてのような知識を待つ者、そして持たざる者という階級さえも消滅した訳である。つまり、サイエンスに「私的な」を導入した事、それによって様々な知識が溢れ出し、その移り行くトレンドの最中で、個人を確立するアイデンティティは、より醸成されて行くのだ。これらの事柄によって、アイデンティティがポジティブに確立されるに際しての手掛かりを示して見た。

 

フィロソフィー【知】と【人】そして愛の関係 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.1

真実的なものが、形而上的であるという意義は、自分とは「決して知り得ないと存在」とする事にその本義がある。「決して知り得ない」それは、いわゆるサイエンスを志す者が身に付けるべき作法であると言えるだろう。また「決して知り得ない」とは、それは「決して触れられない」「決して対面出来ない」という事の暗喩でもある訳である。では、哲学〔フィロソフィー〕とは、何か。それは、【知】と【人】との愛の関係性である。まさに「知〔ソフィー〕」を「愛する〔フィロ〕」というイメージからは、まるで愛しき人に馳せる、深い情を篭めたような情景を連想させる。

 

この「決して知り得ない〔もの〕」こそ、これがそうであるから、これに「知〔ソフィー〕」に倒置させた、「愛する〔フィロ〕」という表現を与えたのだろう。俗に、決して触れられない高嶺の花にこそ、人間の愛は、深く燃えるものである。こうした「知〔ソフィー〕」と「愛する〔フィロ〕」が限りなく親密に関係し合うような、決して「知り得ないもの」に関する、そのような甘美なる表現は、人間が「知」という現象に対して抱く、エロスを表象しているようにも見える。それは、現象の一部である【知】を人格として喩え、更にそれを「決して、到達し得ない」という、さもそれが人間と人間との、甘い愛の関係になぞらえているように、思わず空想してしまうのだ。

 

つまりフィロソフィーとは、【知】と【人】との人的な愛を介した蜜な関係を謳ったものではないか。つまり、そこには人間が本能的に持っているエロスが、暗喩として篭められているように思える訳なのだ。そして、その実践者を「知を愛する者〔フィロソフィスト〕」と呼ぶような、このような名に関しても、そこには、醸成されたより親密なムードが表現されているようでならない。【人】は愛を持って、【知】と対面し、そこに親密なる関係性が生まれる。そのような連想を想起させるのは、決してただの夢想ではないだろう。

 

そして、それらを根源とするサイエンスという営みがある。それは、仮説と証明を繰り返して、知を体系化し、やがて真理へと限りなく近づく為の行いである。これまでサイエンスの手法では、「主観」といわれる、哲学上では「感情」とも分類される箇所を、極力排除してきた。それは、サイエンス的手法においては、「客観性」に基づく分析が、より重要視されている為である。そしてサイエンスとはその手順の上で、厳密に体系化されたものである。またそこでは、特定のルールを厳守した中で、さらに厳密な証明を施す事を、条件とされている。

 

しかしこれは、例え同じサイエンスの仲間でも、そこから様々に分岐したそれぞれの分野では、この証明される際に使用される手法の定義は異なる。だがあえて共通しているものとして、まとめられるならば、それは基本的には、観察される対象に課せられる自身の客観性というスタンスを、厳守しなければならない事であると言えるだろう。そして恐らく、これらは広くサイエンスという分野で、取り入れられているものであろうと思われる。そうして観る対象を、客体化して分節化可能な現象として扱い、それらを普遍的とされる理論に一体系化するという事が、主にサイエンスの分野でなされている仕事である。

 

しかし、サイエンスが勃興する以前の更に昔では、また事情は違っていた。特に古代哲学においては、人間としての在り方を、根源から問うという側面がより強く出ていた。それは、現代サイエンスのように、経済活動に直接応用されているような、実用的なものとは、また違うものであった。特に現代では、サイエンスの果たす役割は、純粋理論の分野だけではなく、応用理論としてより実用的な面に、幅広く利用されている。またサイエンスの発達と、人類の進化は、時代が進むに連れて、より加速的に密接な相乗効果を生み出している。このようにサイエンスとは、古代哲学が、「知を愛する〔フィロソフィー〕」と表現されるように、主に「人間の心の営み」に関して影響を与えていたものとは、違うものに発展して来たと言えるだろう。【しかし、数学の起源のような、農耕との関わりが深くあったとされる分野の研究もある。】

 

このように古代哲学においては、より良く人間が、僅かな期間の狭間で生きるという事に、どれだけの意味を持つ事が出来るのかを模索してきた。更にまた、より良い生き方とは、どのような意義を持ち得るのかという事を、広く探究されてもいた。つまり古代において哲学とは、人間がより良く生きるための智慧を、授かるための手段であった。

 

そうして古代哲学においては、精神、神の存在、また魂や美という現象を通して、この世界の根源を探究しようとした。そして、そこから様々な流派を派生させながら、人間の生という現象を模索して来たのだった。もちろん、その対象は、人間だけという事でもなかった。それは「自然」に関する好奇心がそうである。流派の中には、世界を構成する「自然」の根源を究明したいとした派閥も存在していたのだ。またそれらは、哲学と区分され自然哲学と呼ばれていた。そうして、この世界の根源を究明したいと湧き上がる欲求めいた感情や、またそれらを発端に、現実世界に内在する、様々な現象の根源を探究していこうとする哲学を、総括して形而上学と言われている。

日本の誇りとしての漢字熟語 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか?No.2

施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」-日刊ゲンダイ デジタル-

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/162236?pc=true

 

巷の本屋さんには、外国の学術書が所狭しと並んで居ますね。これは、日本の翻訳のレベルの高さを意味しているのです。が、今の日本で、国外の学術文献を日本語で読めるのは、明治維新後に当時の賢人たちが外国語の文献を日本語に翻訳し、さらにその大元となる漢字熟語を造ったからなのです。しかも、そういうモノが当たり前に流布されている国は、特にその当時はとても少なかったのです。

 

それに国外の学術文献を、それも最新のトレンドを母語で読める国もまた少ないのです。ましてや、岩波文庫、筑摩文庫、そして講談社学術文庫のような名だたる学術書が、一般の書店で並んでるのが常態化していて、またそういう光景が当たり前である国は、日本国外ではあまり見かけないようなのです。しかも文庫本というサイズで、そこそこリーズナブルな値段で買えるものとしては、破格のようです。また特記すべき事に、そのような学術書を、貧困層であろうが富裕層であろうが、あらゆる層の人が、お金さえあれば買えるような国はもっと貴重らしいのです。

 

現代の日本で、教育の場でも趣味の範囲でも学術が広く普及しているのも、一般の庶民が理解しやすいように、尽力した明治時代の賢人が居たからなのです。今読める学術書も、彼らの不断の努力による結晶なのです。そうこれは極端な話ですが、これまでの日本の勃興の源泉こそ、彼らの尽力が故と言えるのです。

 

特に明記しなければならないのは、国外の学術を「日本語に翻訳した」という事なのです。そこにこそ、当時の賢人が果たした重要な意義はあるのです。そして、そうした尽力と共に施行された重要な制度があります。そう、それは学校制度です。当時、教育勅語が謳われて、その号令の下に学校法が制定されました。そしてその号令と共に、そこへ大勢の人が甚大な労力を注いだのです。このような賢人の驚異的な学習力と、それを国民に広く普及させる為の学校制度こそ、それらは目くるめく時代の世界情勢と相関しつつ、日本国においては、富国強兵や殖産興業との政策と、相乗効果を生み出していったのです。

 

このように、国外の学術を母語である日本語に翻訳し、さらに学校制度を通して大勢の人が学ぶ事が可能になった、それは明治の賢人による賜物なのです。このような時代の流れにあって、結果的に、国民に広く学術を学ぶ機会を与えることになりましたが、それらは学校制度の歩みと共に、より広範に行き渡ることになるのです。しかも特記すべき事に、当時の公的教育の場のほとんどは、母語である日本語で行われていたのです。

 

そしてこのような、大勢の人たちの膨大な労力のお陰で、現代でも日本国として確固たるアイデンティティを保つ事が可能になるのです。かつてのように国外の文化を日本語に翻訳して、それらを自分の文化として吸収する。それも国外の言語に、まったく迎合するのでもなく、逆に自国の文化に翻訳して図太く吸収する。それはとてつもないエネルギーだったでしょう。またその甚大な底力こそが、当時、植民地支配が横行していた、動乱の時代を生き抜くための知恵だったのです。

 

このように欧米各国の植民地とならないために、当時の賢人たちは尽力したのです。それは、脅威である国の文化を、ただ恐れるのではなく、逆に学び吸収する事、そしてその途方もない努力が、植民地とならないためには絶対的に必要である事を、当時の賢人と高官は見抜いていたのです。つまり「敵を墜とすためには、まず敵を知れ」という事です。

 

そのように植民地とならない為に、当時は一心不乱だった。この当時を無くして、現在の日本は、おそらく存在していなかったでしょう。当時の賢人、そしてなによりその時代の潮流に大勢の人が尽力した事、これらの出来事がなければ、とうの今頃も日本はどこかの国の植民地だったでしょう。この事は、歴史家にもそう言っている人がいますね。

 

また、当時の欧米列強国と肩を並べる事が出来たのも、ただ運が良かっただけではありません。それは当時の欧米列強国の知識や学術を、日本語で学び自分の身に吸収したという事が、その大きな理由の一つとしてあるのです。決して欧米各国に迎合しなかった。この事が、その後の日本国の運命を決定的に変えたのです。

 

しかし欧米各国から学術を学ぶにはまず、国外の言葉をマスターする必要がありました。なぜなら、その当時は、翻訳もなにもなかった時代だったからです。国外の言語を学ぶこと、それは必須でした。だからまず欧米各国の言葉をマスターしなければなりませんでした。そのような習得なしで、国外の最新のトレンドを学ぶのは不可能です。それもマスターしなければならなかった言語は、ただ英語だけではありませんね。それは無数にありました。

 

その当時、ドイツ語やフランス語など、その国の言語を学ばなければ、一片もその本義を身に出来ないような最新の学問に溢れていました。それを当時の政府は各国の語学に精通した人を集めて、各国に派遣し回りました。その中には、かの夏目漱石もいました。彼もそういう名目で派遣され、当地でノイローゼになった逸話は有名ですよね。

 

そして視察団が帰国した際に、次々と欧米各国の科学や思想を翻訳していったのです。そしてその時に大量に造られたのが、現在、巷にも溢れている「漢字熟語」なのです。欧米各国の科学や思想の翻訳こそ、その視察の本当の目的であり、そして大きな成果です。そのような成果により、漢字熟語が大量に発明され、その絶大な利便性と、学校制度が開始された時代の流れとに相まり、学術はより一般的な形で行き渡る事になりました。

 

またそれらは、一般庶民の為により噛み砕いた形に集約され、それは「学問」と言われていました。それは、学術の本質を広く国民に普及させるためのもので、今で言うところのハウツーに当たるものでした。それも当時の国民に広く行き渡る事になります。その契機となった書籍の中でも、福沢諭吉の「学問のすすめ」は有名ですね。あれは学術のスタイルを、生活の知恵レベルにまで、還元化したものでしたね。

 

そういう国民に分かりやすく学術の本質を学んでもらいたい。それはアテネ文庫というシリーズにも、その意向が反映されていたりします。これは現在でも復刻版として再版されています。また、富国強兵や殖産興業といった政策の一環でもあった、欧米各国の学術書を翻訳するという作業にこそが、ここはあえて端折った言い方をすれば、その功績で、現代の世界情勢にまで影響を与えてもいるのです。それほど、明治の時代に造られた漢字熟語は貴重なものなのです。

 

つまり以上のような明治の史実にこそ、現代の日本に引き継がれるべき精神が宿っているのです。かつて江戸の鎖国という保守的な時代から、ときの明治維新の開国により、その瞬間から膨大に異文化を取り入れるようになった。それも植民地支配の魔の手が、刻々と迫り来るひっ迫感の中でです。それは、甚大なエネルギーであったでしょう。でも、筆者の知識的な技量と紙面の兼ね合いで、どうしても掻い摘んだ形となってしまいました。

 

そして、ここで参照の記事に話しを合わせると、以上に書いた内容にこそ、日本の右翼の本性を成すものがあるとも言えるでしょう。しかし、今の総理が改革を起こそうとしている、大学での英語公用語化の案も、かつての賢人による不断の歴史的尽力の鼻を、結果的にへし折る事になるのではないでしょうか。異文化の膨大な翻訳、またはその甚大なエネルギーにこそ、連綿と続く日本の歴史に精通する魂があります。よって、その翻訳の賜物である漢字熟語こそ、その日本の誇りが、濃厚に結晶化されているのです。だから、この不断の精神を、決して途絶えさせてはならないのだと思います。

 

このように日本の歴史の叡智が濃縮されている漢字熟語を半ば廃止し、公用の一部を英語に一本化させる、このような事態は、これまでの圧倒的な歴史的努力の結晶を、全て葬り去るのと同じなのだと思います。それでこの参照の記事で言うところの「英語圏への隷属」というのは、このような明治開国以来の、日本の不断の努力の精神を、蔑ろにするという訴えなのではないでしょうか? 日本国の勃興という歴史的な誇り、それを象徴するするのが、当時発明された漢字熟語なのです。

 

日本語という母語公用語として、現代でも存立しているという事と、そして高等教育を、その母語である日本語で学ぶ事が可能であるという事、それらは、たんに偶然なのではありません。侵略しては国を拡張し、侵略されては、富や、挙句の果てには伝統もが丸ごと潰されるという、怒濤の歴史の渦中でも、日本という国が確かに独立を続けているのだ、という証なのです。

 

現在の日本のように母語が隅々にまで公用されている、しかも高等教育までも母語で行なう事ができる。このような国は、意外とあまり存在しないのです。よって、このような事実こそが、日本という国が豊かに成立しているという事、また、一国として独立出来ているという証となっているのではないでしょうか。

グローバリズムを生き残る 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか? No.1


昨今、大学や企業、そしてアカデミックな研究施設での英語公用語化の流れが起きつつある。グローバリゼーションの流行が世界のあらゆる機関に浸透して行く中で、日本国の内部にも徐々にではあるが、影響しつつある。

 

今でも電車に乗ると、英語教材を片手に、ぶつぶつと内容を復唱しているサラリーマンに出くわす事がある。あの楽天も、英語の公用語化に尽力しているらしい。グローバリゼーション、平たく言えば英語圏域の拡張と、市場主義の拡大は、良い効果を期待できるのとは裏腹に、それ相応の悪影響の方も、また懸念されなければならない状況を生み出して行くだろう。そのような影響は、英語圏以外の各国にも、これから深く侵食して行くだろうと予想される。

 

グローバリズムによって英語を話す人はぐっと増えて行くだろう。しかしそれは、英語を話す高級人材と、話せない下流の労働者という、さながら過去の貴族と平民、インテリジェントとイグノラントといった階級制の再来のようにも感じなくはない。英語圏域の拡張と権力の寡占は、これからこの世界が英語圏域にフラット化して行くという事である。

 

グローバリゼーションとは、広大な世界の可視化に伴って、個人の視野と可能性を拡げる善良な動向なのだと思われるだろう。しかしようは、国内の差別、格差などの社会問題も、つまり良いも悪いも同様の構造が世界中を通して均衡になって行くという事でもあるのだ。

 

ようは、拡張して行くのは個人の可能性もしかるに、同じ国の中の社会問題も、国境を超えて同様になるという事である。ことさら異言語の文化を吸収し、迎合して行かなければならない運命にあるような国にとっては、アイデンティティ・クライシスの問題も、また社会問題化して行くだろう。そのような国では、大抵教育を異言語で受けなければならいくらい、教育インフラが整っていないケースが多くあるように思う。

 

しかし、日本の場合は、幸いな事にそうではない。日本の国では、どのような難解な理論も、大抵は日本語の文献で学習する事ができる。日本は、外国のものを自国の言語に翻訳するという事をよくする。この翻訳の文化こそ、奥が深い歴史があるのだが、近代においてそのような翻訳の文化は、帝国主義から身を守るための、 知恵を授ける契機ともなった。

 

日本国においては、国外の文化を日本語に訳していなければ、戦争に負けていただろう。つまり、国外の文化を翻訳し、日本語化したという功績こそが、日本という国を存続させたという事なのだ。そして後世に、日本という国の持つポテンシャルを周囲の国に強烈にアピールするきかっけを作ったのだ。

 

それは結果的に、日本語という母語に誇りを持てた、という良い結果も生み出した。これまで世界に対して日本のブランド化を成功させてきたのは、決して、英語圏域に隷従してきたのでも、または英語という言語に一方的に迎合してきたからでもない。それは、日本語という母語の威信と確信が、過去の体験を通して、大きく確立され、自信を持って行使されてきたからだ。

 

また、国外の商品に日本語を記す事を可能にさせたのも、日本語の持つブランド力の他ないであろう。このように自国の母語に自信と誇りを持てる、これこそが本当の自国の持つ秘めたるパワーなのではないか。母語への威信は一国の活力に繋がる、それは、文化の魅力、はたまた経済の力でもそうである。グローバリゼーションによって、世界市場は活性化するだろうが、とどのつまりグローバリズムでの成功こそは、相手国と対等に渡り合える程の誇りを、母語を基軸に、強く確信出来ているという事の裏返しではないか。

 

経済的な自信は、誰よりも英語を話せるという優越感の中ではなく、なによりも母語を持っているという誇りの中にこそ、あるべきである。このような事は、過去、幾度の略奪と奪還を経てきた、歴史が証明している史実である。

 

それこそ、英語を話せるようになった事に優越を憶えるのではなく、日本語にこそ誇りを持つべきだという論の論拠である。学校教育での英語履修も大切だが、それに付随して、日本語という母語に誇りを感じる事のできる教育もまた必須であると、思われる。

介護保険制度の限界を考えてみる 〜社会福祉、および社会主義の終焉〜

http://linkis.com/RtiPh

 安倍政権もくろむ「要介護1,2外し」で介護破産に現実味 【日刊ゲンダイ】 2016年3月5日

 

今はこういう取り組みがある一方で、定年退職したお年寄りが担ってる、もっとアバウトな仕組みのより安い家事代行サービスもあるんだよね。また、そういうお年寄りの中には、元職人みたいな人も居るようで、サービスもすごくリーズナブルらしいね。植木の手入れとか、DIY的なちょっとした軽作業にも、こういう職人さんが居ると助かるよね。

 

これは、退職したお年寄りにとっても、老後のささやかな仕事になる訳だし、またサービスを受ける利用者の方も、ほぼ同世代という事で、フランクに頼みやすいというメリットもあるようなんだよね... また歳が近いとそれだけ会話も弾むようなんです。しかも介護を受けたいと思っている人の中には、たんに話し相手になって欲しいとか、軽く掃除して欲しいとかね、別に保険制度通さんでも良いやん? みたいな小さなものが多いんだよ。

 

また実際みやすけが介護してて、それって介護保険に適応するの? と疑問符が浮かぶものもあるもんね。でも、こういう代行サービスは、めんどうな手続きも必要ないし、また色々細かく機転も効かせられるだろうから、そっちの方が良いケースもあるんだよ。たぶん、思っているよりかもはるかに多くね。

 

でも巷では、この手の話に批判も多いよね。弱者を介護保険制度から排除するな! みたいなね。けど、みやすけ的には、お堅い制度で、いつまでも窮屈にサービスを受けるよりかも、グレーゾーンはどんどん介護保険から外してしまった方が、サービスを受ける方は、むしろ勝手が良かったりするんだよ。

 

今、政策しなければならないのは、制度から外れてしまってから、再びどこかで支援してくれる受け皿を作る事よ。だからNPO法人みたいな、またそれよりもよりアバウトな法人をもっと充実させて、柔軟に広く支援できるような仕組みを、いろいろ作れたらなと思う次第なのですよ。

 

しかし批判する人の中には、かつて日本政府が、社会主義的な福祉社会を目指しててみたいな記憶があるんだろうね。つまり人は社会が見るべき、その元締めに国があるべきだと。けど、今はサービスのニーズも多様化してて制度化こそが追いついていない。そんな現状の最中で、とどのつまりは「社会福祉」という理念が、成り立っていないという事なんです。そもそも本質的にそんなのが成り立つはずもないのですよ。特に介護を必要とする人口が最も多い今の時代はね。

 

むしろ介護保険制度みたいな国の制度に固執してた方が、排除される人は多くなるんだよ。逆説的にね。だからこの手の批判は、どこか間違ってるんです。それに一億全てを保険でまかなおうとする発想が、そもそも理念先行型で古い。それなら一部でも良いから、あやふやなグレーゾーンは保険制度から省いた方が良いんです。その方が多様なニーズにはずっと合わせやすい。

 

そう考えれば、ここで足りないと気づくのは、人員でも、お金でもないんですよ。人員も充分に居るし、お金も保険でまかなおうという事をしなければ足りないという事にはならない。つまりそれは何か? そうです、圧倒的に、その後の受け皿の方なんですよ。

 

そもそもね、批判してる人がイメージしてるような社会主義は終わりなんですよ。ましてや社会福祉なんてものは以ての外! これは今の経済もそうだけど、国があれこれちょっかい出して、全体をコントロールする時代は終わってるんですよ。いつまでも、ケインズ万歳では居られないんだよね。これは世の移り変わりで、いずれそうしなければならないんです。なのでみやすけは、介護保険制度の一部解体は万歳よ!

選挙の投票率は高ければ良いのか? 〜ノンポリシーの票が政治を空虚にする〜

今回も、あっさりと自民党が圧勝しましたね。これは大抵の人たちにとっては、大方予測済みだった筈です。そしてここで、みやすけは感じた事がありました。これは過去の選挙でも、また、特に今回の選挙の結果を受けてもそうだと確信出来ることがあります。それは、「なんでもかんでも、みんなが無闇に投票してはいけないのだ! 」という事です。結論を先に言えば、こういう大量のノンポリシーの票が投じられる事で、本当に困ってる人の声を薄くするのです。それはどういう事か? 以下、解りやすいように詳述してみましょう。

 

そもそも政治とは何でしょう? それは万人が自称インテリを気取る事なのでしょうか? 様々な意見があると思いますが、よく考えてみましょう。やれ一般意志? 自律した個人? 挙句の果ての理性的な主体? 政治学の世界には、このような用語がたくさんありますよね。しかしこのような、ピュアな概念を用いて、本当に現実の政治が可能なのでしょうか? そうですね、これらは常識的に考えて、この世にはありえない代物ばかりなのです。ましてや、このような概念を満遍なく備え合わせた完璧政治人間、そんな存在など、この世界には居ません。そう、それが存在する事、それこそまったくあり得ないのです。そのようなムリな概念を礎にして、現代の政治的理念はあります。そう、現代の政治は、こうした虚構の上に作られている訳なのです。

 

本質的に「政治」とは、本当に困った人の為にあるべきなのです。少なくてもみやすけはそう思います。誰彼にも誠実な政治、そしてみんなの政治とは、言葉の節回しでは美しいのですが、果たして本当にそういう理念の美しさだけで、政治を創っても良いものなのでしょうか? みんなの政治、そういう理念はある意味では、もっともなのですが、そういう言葉は、本当に大切な部分を切り落とす事にもなり得ます。その問題の核心にこそ、政治的にノンポリシーな存在と、深く関係する訳なのです。

 

とどのつまり今回の選挙では、このノンポリシーの票こそが、困っている少数の人達の掛け替えのない一票を、いかに稀釈してしまったのかが、はっきりと見えたような気がしました。今回も自民党が圧勝しましたね。これは半ば予想通りの結果でした。しかし、今回の自民党の圧勝とはどういう意味なのでしょうか? そうです、これを言い換えれば、それは生活がそこそこ安定していて、将来に対して、それなりに不安もない人達の大成なのだという事を、如実に表しているのではないか。そう思います。

 

しかし、考えてもみてください。そもそも今の生活にある程度満足してますみたいな人が、政治的に主張する事は必要なのでしょうか? 決して先行きも不安定ではなく、かつそれなりに生活の満足度も高い彼らにです。いいえそんな彼らには、政治的に主張する必要はないと、みやすけは思っています。

 

生活がそこそこでも安定している人たち、そんな彼らが必要とするものこそ、それはせいぜい「現状の維持」なのだという事が推測される訳です。そんな彼らは変化を嫌うでしょう。自分の立場が危うくなる可能性を見越してまで、ムリに変化を求める事はしないと思うのです。また、これが本当なのだとすれば、そういう人たちはどこに投票するでしょうか? そうですね、なんとなしに自民党に入れる事でしょう。なぜなら、これまでの日本社会が、ずっとそうだったからです。

 

いわば自民党とは安定の象徴みたいな存在なのです。それは戦後の日本の歴史そのものだからです。あらゆる日本の歴史的事件も政策も、また良いも悪いも、そのほぼ全てを歴任されてきた安心できる唯一の政党、それが自民党なのです。そういう今の世の中が自民党を求める動機こそ、そこに日本国民の安定志向が表れているのだと思います。

 

こういう事からも改めて解るように、みんなで創る政治とは、そもそも幻想なのです。みんなが合意する清き政治とは、かつての共産主義国家、社会主義国家でもありえませんでした。たとえそれが誰かの為の政治であるなら、それは誰の声なのかを明確にする必要があります。しかしそれには、投票率が高いという事、それだけでは何も判りはしませんね。むしろ、得票数の高低は、必要を訴える少数の声のボリュームと反比例するようにも見えます。

 

でも、投票率が高ければ高いという事、それは政治がよりよく機能している証拠だ。そういう人たちが、巷には居ます。しかし彼らの言う事は、果たして本当なのでしょうか? みやすけ個人が現状を見る限り、そんな事は、あんまり無いと言えそうです。

 

投票率とは、いわばその選挙に国民が参加した度合いを示す指数ですね。だから、高ければそれだけ政治がより良く機能しているんだ、こう分析するのはもっともに見える話です。しかし、その投じられた一票はしっかりと吟味された上のものなのでしょうか? さてそれは本当にそうでしょうか? いいえ恐らくは、ほとんどの票がそうではないと思います。これは自分の投票を考えてみれば解るのではないでしょうか? あなたはきちんと、その一票を吟味していますか?

 

またそれは毎回毎回、選挙がある度に自民党が圧勝する場面を見れば、一目瞭然です。国民の大方は変化ではなく、現状維持を求めている。恐らく、それを求めるのは、別に現状に窮しているからではなく、なんとなしに安定を感じているからです。その象徴こそが、自民党の度々の圧勝なのだと思う次第なのです。

 

このように政治とは、特に日本の場合は、生活が安定して、普段そんなに不満が無い人は、自民党に入れる。労働問題でこまねいている人は、共産党社民党に入れる。また、思想的にリベラルな人達は、リベラルな政党に入れる。これは当たり前の傾向なのです。政党に投票するなんてものは、そういうものなのです。

 

しかし、生活が安定していて、それほど不満がない人の票は、そんなに必要でしょうか? そういう人たちは毎回、現状維持の為に自民党に入れるでしょう。だから、いつでも自民党が圧勝するのです。それは生活に困っている人よりかも、それなりに満足している人の方が多いという事を反映しているのです。これが日本の現状なのです。しかしこれでは、現状に窮している人たちの声が届く事は、未来永劫訪れないままでしょう。それこそ彼らがマイノリティーである所以があります。

 

しかもこの推測が正しいのであれば、日本の保守とは、たかがそんなもんだという事です。空気というか、場の雰囲気がそうだから、または、今の生活が安定してしてるから、現状維持に直向きになる。ついでに懐古に浸って日本再生とか言ってみたりと、もうめちゃくちゃですね。これらは、保守というよりかは、お年寄りとかが昔を懐かしんで、想い出話に花を咲かせる、そんな程度のものなのでしょう。その風流さにたまたま政治が絡んでいる、だから周囲からは破茶滅茶に見える。

 

しかもかつては、国防の事も相当マスコミからツッコミを入れらてはいたけど、今回はそれさえも争点にならなかった。どとのつまり今回は「何の為? 」とも思えるのもさながら、実は「一体誰の為? 」という部分も相当判らない、そういう選挙だったと思います。

 

しかも今回からは、18歳からの投票が可能となりました。しかし、その約半数の票が、自民党へ流れてしまったようですね。それは公約がどうのこうの、政策がどうのこうのという模索の結果ではなく、なんとなく皆んなこうしてるから、取り敢えず空気で入れといた感が見事に出た結果となりましたね。やっぱり自民党は、こういう部分で得票数を得るのがすごく巧い、そう感心してしまいました。

 

 

18歳と19歳の有権者 出口調査の結果 [NHK NEWS WEB]

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160710/k10010589981000.html

現行憲法の国民に対する義務を問う 〜体罰は是か非か?〜 No.2

では、この問題をもっと大きなフィールドに拡張した場合では、どのように解釈できるでしょうか? 現在、日本国憲法には、国民の三大義務の一つで「教育を受けさせる義務」という文言が明記されていますね。そもそも事の発端となった学校制度は、明治に発布された教育勅語からその源流があります。それは富国強兵、殖産興業、と名を打って中世江戸の閉鎖的な小国から、近代資本主義国家として趨勢を果たすために起こした、明治の政府による政策です。国をイケイケに発展させて、ムキムキに強くする。教育とは、このような政略の一環として樹立したものなのです。そしてこの背景には、当時の国際社会の情勢が深く関わっていました。

 

日本国が明治維新を果たした当時の国際社会の情勢とは、植民地支配や帝国主義などが趨勢を得ていた時代です。かつてペリーが、江戸湾浦賀に入港したのも、当時のアメリカの政略として新マーケットを開拓する為に、未開国だった日本を開国させたいという思惑があったとされています。当時のマーケット開拓というのは、いわゆる土地の独占です。当時のマーケティングの論理は、他所の土地を独占して、その土地から様々な物を搾取する事を意味していました。

 

当時は、金品が増えると、国が豊かになるという理屈がまかり通っていた時代です。だからその外貨や物を求めて、時の列強国は、各国の土地を支配し回っていたのです。これを俗に植民地主義と言います。そして、金品が増える事で国が繁栄して行くという思想、これを重商主義と言いますね。

 

そして、その頃の植民地主義重商主義の猛威が、各小国に吹き荒れる中で、ほとほと開国を果たした当時の日本は、必然的に、富国と強兵、そして産業を発達させる必要性に迫られた訳なのです。すべては、日本という国のメンツと伝統を守るための政策だった訳です。そう、列強国から伝統という財産と身を守る為に。つまり本当の意味での教育というのは、当時弱小であった日本が、大日本帝國として富国と強兵、そしてそれに伴う一国の繁栄を目指した中での政策だった訳なのです。またそれらは、植民地支配からの防衛という意味合いも非常に強いものでした。つまり当時の教育という目的には、国を強くし繁栄させて、敵国から防衛するという明確な動機が存在していたのです。

 

ところが、現代ではどうでしょう? 現行の憲法にもこの「教育を受けさせる義務」は明記されていますね。でも、現代にとっての義務とは、何ゆえの義務なのでしょうか? しかも「教育を受けさせる」とは、ちょっとよく分からない表現ですよね。「受けさせる」とは何か? 実はこれ、子どもが主語なのではないのです。では誰か? そう、この明文こそは、「親」の方に、向けられたものなのです。親に対して「子どもには教育を受けさせないとダメだ」と勧告している、そういう訳なのです。つまり子どもというのは教育を「受けさせられる」側なのです。

 

しかし現代では、このような義務も、富国強兵のためでも、殖産興業のためでもありえなくなっています。高度資本主義と化した現代にとって、このようなイケイケの政策は、もはや時代遅れなのです。かつてのように、みんながガンバれば国が成長する時代は、とうに失われています。むしろむやみに働けば、それだけ損をする、そういう時代なのです。しかし、現行の憲法に明記されている義務とは、大日本帝國憲法の明文をそのまま敷衍したものなのです。そう、このような義務の明記こそ、これは、時代遅れの象徴なのだという事です。なぜなら一国が無限に成長してムキムキに強くなる、そんな時代はとうに終焉に伏しているからです。

 

また現代の改憲論も、国防と人権の方に眼が一方的に向きがちなのですが、しかしこうした国民の義務に関する議論は全く見られませんよね。今の政府にとって、現行の憲法が不具合を招くものだとすれば、それはそのまま国民に向けられる義務も、また不具合を起こすものである筈です。

 

では国民に対する義務とは、実際一体何を目的としたものであるべきなのか? 大日本帝國憲法をそのまま敷衍した現行の憲法ではなくて、現代の風紀に沿った形の新たな憲法が必要なのではないか? それは決して国防論や人権だけではなく、もっと身近な事柄を規定しているものを。

 

それは「教育を受けさせる義務」を含めた三つの国民に対する義務も、またそうなのです。はて一体、現行の憲法に明記されているような主権とは、何に関しての主権なのか、また国民とは一体誰の事を指すのか、そういう様々な疑問の中で、果たすべき税制とは一体何を規定するものなのか、という事を真剣に考えなければならない時が、きっとこれからは来るでしょう。

 

それは日本という国のバグなのではなく、グローバリゼーションがドンドンと拡張していく、世界のあらゆる国が抱えている問題でもあるのです。それはかつての純血主義や、国粋主義では抑えきれない、世界のあらゆる国境を揺るがし得ない問題なのです。これまでの古い規定を変えていく、そのような議論が、今必要になってきているように感じています。もし仮に改憲をするのであれば、このような教育に関する義務、またその他、細かい箇所で不具合が生じている箇所もまた、改憲していくべきだと思われます。