心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

日本の誇りとしての漢字熟語 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか?No.2

施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」-日刊ゲンダイ デジタル-

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/162236?pc=true

 

巷の本屋さんには、外国の学術書が所狭しと並んで居ますね。これは、日本の翻訳のレベルの高さを意味しているのです。が、今の日本で、国外の学術文献を日本語で読めるのは、明治維新後に当時の賢人たちが外国語の文献を日本語に翻訳し、さらにその大元となる漢字熟語を造ったからなのです。しかも、そういうモノが当たり前に流布されている国は、特にその当時はとても少なかったのです。

 

それに国外の学術文献を、それも最新のトレンドを母語で読める国もまた少ないのです。ましてや、岩波文庫、筑摩文庫、そして講談社学術文庫のような名だたる学術書が、一般の書店で並んでるのが常態化していて、またそういう光景が当たり前である国は、日本国外ではあまり見かけないようなのです。しかも文庫本というサイズで、そこそこリーズナブルな値段で買えるものとしては、破格のようです。また特記すべき事に、そのような学術書を、貧困層であろうが富裕層であろうが、あらゆる層の人が、お金さえあれば買えるような国はもっと貴重らしいのです。

 

現代の日本で、教育の場でも趣味の範囲でも学術が広く普及しているのも、一般の庶民が理解しやすいように、尽力した明治時代の賢人が居たからなのです。今読める学術書も、彼らの不断の努力による結晶なのです。そうこれは極端な話ですが、これまでの日本の勃興の源泉こそ、彼らの尽力が故と言えるのです。

 

特に明記しなければならないのは、国外の学術を「日本語に翻訳した」という事なのです。そこにこそ、当時の賢人が果たした重要な意義はあるのです。そして、そうした尽力と共に施行された重要な制度があります。そう、それは学校制度です。当時、教育勅語が謳われて、その号令の下に学校法が制定されました。そしてその号令と共に、そこへ大勢の人が甚大な労力を注いだのです。このような賢人の驚異的な学習力と、それを国民に広く普及させる為の学校制度こそ、それらは目くるめく時代の世界情勢と相関しつつ、日本国においては、富国強兵や殖産興業との政策と、相乗効果を生み出していったのです。

 

このように、国外の学術を母語である日本語に翻訳し、さらに学校制度を通して大勢の人が学ぶ事が可能になった、それは明治の賢人による賜物なのです。このような時代の流れにあって、結果的に、国民に広く学術を学ぶ機会を与えることになりましたが、それらは学校制度の歩みと共に、より広範に行き渡ることになるのです。しかも特記すべき事に、当時の公的教育の場のほとんどは、母語である日本語で行われていたのです。

 

そしてこのような、大勢の人たちの膨大な労力のお陰で、現代でも日本国として確固たるアイデンティティを保つ事が可能になるのです。かつてのように国外の文化を日本語に翻訳して、それらを自分の文化として吸収する。それも国外の言語に、まったく迎合するのでもなく、逆に自国の文化に翻訳して図太く吸収する。それはとてつもないエネルギーだったでしょう。またその甚大な底力こそが、当時、植民地支配が横行していた、動乱の時代を生き抜くための知恵だったのです。

 

このように欧米各国の植民地とならないために、当時の賢人たちは尽力したのです。それは、脅威である国の文化を、ただ恐れるのではなく、逆に学び吸収する事、そしてその途方もない努力が、植民地とならないためには絶対的に必要である事を、当時の賢人と高官は見抜いていたのです。つまり「敵を墜とすためには、まず敵を知れ」という事です。

 

そのように植民地とならない為に、当時は一心不乱だった。この当時を無くして、現在の日本は、おそらく存在していなかったでしょう。当時の賢人、そしてなによりその時代の潮流に大勢の人が尽力した事、これらの出来事がなければ、とうの今頃も日本はどこかの国の植民地だったでしょう。この事は、歴史家にもそう言っている人がいますね。

 

また、当時の欧米列強国と肩を並べる事が出来たのも、ただ運が良かっただけではありません。それは当時の欧米列強国の知識や学術を、日本語で学び自分の身に吸収したという事が、その大きな理由の一つとしてあるのです。決して欧米各国に迎合しなかった。この事が、その後の日本国の運命を決定的に変えたのです。

 

しかし欧米各国から学術を学ぶにはまず、国外の言葉をマスターする必要がありました。なぜなら、その当時は、翻訳もなにもなかった時代だったからです。国外の言語を学ぶこと、それは必須でした。だからまず欧米各国の言葉をマスターしなければなりませんでした。そのような習得なしで、国外の最新のトレンドを学ぶのは不可能です。それもマスターしなければならなかった言語は、ただ英語だけではありませんね。それは無数にありました。

 

その当時、ドイツ語やフランス語など、その国の言語を学ばなければ、一片もその本義を身に出来ないような最新の学問に溢れていました。それを当時の政府は各国の語学に精通した人を集めて、各国に派遣し回りました。その中には、かの夏目漱石もいました。彼もそういう名目で派遣され、当地でノイローゼになった逸話は有名ですよね。

 

そして視察団が帰国した際に、次々と欧米各国の科学や思想を翻訳していったのです。そしてその時に大量に造られたのが、現在、巷にも溢れている「漢字熟語」なのです。欧米各国の科学や思想の翻訳こそ、その視察の本当の目的であり、そして大きな成果です。そのような成果により、漢字熟語が大量に発明され、その絶大な利便性と、学校制度が開始された時代の流れとに相まり、学術はより一般的な形で行き渡る事になりました。

 

またそれらは、一般庶民の為により噛み砕いた形に集約され、それは「学問」と言われていました。それは、学術の本質を広く国民に普及させるためのもので、今で言うところのハウツーに当たるものでした。それも当時の国民に広く行き渡る事になります。その契機となった書籍の中でも、福沢諭吉の「学問のすすめ」は有名ですね。あれは学術のスタイルを、生活の知恵レベルにまで、還元化したものでしたね。

 

そういう国民に分かりやすく学術の本質を学んでもらいたい。それはアテネ文庫というシリーズにも、その意向が反映されていたりします。これは現在でも復刻版として再版されています。また、富国強兵や殖産興業といった政策の一環でもあった、欧米各国の学術書を翻訳するという作業にこそが、ここはあえて端折った言い方をすれば、その功績で、現代の世界情勢にまで影響を与えてもいるのです。それほど、明治の時代に造られた漢字熟語は貴重なものなのです。

 

つまり以上のような明治の史実にこそ、現代の日本に引き継がれるべき精神が宿っているのです。かつて江戸の鎖国という保守的な時代から、ときの明治維新の開国により、その瞬間から膨大に異文化を取り入れるようになった。それも植民地支配の魔の手が、刻々と迫り来るひっ迫感の中でです。それは、甚大なエネルギーであったでしょう。でも、筆者の知識的な技量と紙面の兼ね合いで、どうしても掻い摘んだ形となってしまいました。

 

そして、ここで参照の記事に話しを合わせると、以上に書いた内容にこそ、日本の右翼の本性を成すものがあるとも言えるでしょう。しかし、今の総理が改革を起こそうとしている、大学での英語公用語化の案も、かつての賢人による不断の歴史的尽力の鼻を、結果的にへし折る事になるのではないでしょうか。異文化の膨大な翻訳、またはその甚大なエネルギーにこそ、連綿と続く日本の歴史に精通する魂があります。よって、その翻訳の賜物である漢字熟語こそ、その日本の誇りが、濃厚に結晶化されているのです。だから、この不断の精神を、決して途絶えさせてはならないのだと思います。

 

このように日本の歴史の叡智が濃縮されている漢字熟語を半ば廃止し、公用の一部を英語に一本化させる、このような事態は、これまでの圧倒的な歴史的努力の結晶を、全て葬り去るのと同じなのだと思います。それでこの参照の記事で言うところの「英語圏への隷属」というのは、このような明治開国以来の、日本の不断の努力の精神を、蔑ろにするという訴えなのではないでしょうか? 日本国の勃興という歴史的な誇り、それを象徴するするのが、当時発明された漢字熟語なのです。

 

日本語という母語公用語として、現代でも存立しているという事と、そして高等教育を、その母語である日本語で学ぶ事が可能であるという事、それらは、たんに偶然なのではありません。侵略しては国を拡張し、侵略されては、富や、挙句の果てには伝統もが丸ごと潰されるという、怒濤の歴史の渦中でも、日本という国が確かに独立を続けているのだ、という証なのです。

 

現在の日本のように母語が隅々にまで公用されている、しかも高等教育までも母語で行なう事ができる。このような国は、意外とあまり存在しないのです。よって、このような事実こそが、日本という国が豊かに成立しているという事、また、一国として独立出来ているという証となっているのではないでしょうか。

グローバリズムを生き残る 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか? No.1


昨今、大学や企業、そしてアカデミックな研究施設での英語公用語化の流れが起きつつある。グローバリゼーションの流行が世界のあらゆる機関に浸透して行く中で、日本国の内部にも徐々にではあるが、影響しつつある。

 

今でも電車に乗ると、英語教材を片手に、ぶつぶつと内容を復唱しているサラリーマンに出くわす事がある。あの楽天も、英語の公用語化に尽力しているらしい。グローバリゼーション、平たく言えば英語圏域の拡張と、市場主義の拡大は、良い効果を期待できるのとは裏腹に、それ相応の悪影響の方も、また懸念されなければならない状況を生み出して行くだろう。そのような影響は、英語圏以外の各国にも、これから深く侵食して行くだろうと予想される。

 

グローバリズムによって英語を話す人はぐっと増えて行くだろう。しかしそれは、英語を話す高級人材と、話せない下流の労働者という、さながら過去の貴族と平民、インテリジェントとイグノラントといった階級制の再来のようにも感じなくはない。英語圏域の拡張と権力の寡占は、これからこの世界が英語圏域にフラット化して行くという事である。

 

グローバリゼーションとは、広大な世界の可視化に伴って、個人の視野と可能性を拡げる善良な動向なのだと思われるだろう。しかしようは、国内の差別、格差などの社会問題も、つまり良いも悪いも同様の構造が世界中を通して均衡になって行くという事でもあるのだ。

 

ようは、拡張して行くのは個人の可能性もしかるに、同じ国の中の社会問題も、国境を超えて同様になるという事である。ことさら異言語の文化を吸収し、迎合して行かなければならない運命にあるような国にとっては、アイデンティティ・クライシスの問題も、また社会問題化して行くだろう。そのような国では、大抵教育を異言語で受けなければならいくらい、教育インフラが整っていないケースが多くあるように思う。

 

しかし、日本の場合は、幸いな事にそうではない。日本の国では、どのような難解な理論も、大抵は日本語の文献で学習する事ができる。日本は、外国のものを自国の言語に翻訳するという事をよくする。この翻訳の文化こそ、奥が深い歴史があるのだが、近代においてそのような翻訳の文化は、帝国主義から身を守るための、 知恵を授ける契機ともなった。

 

日本国においては、国外の文化を日本語に訳していなければ、戦争に負けていただろう。つまり、国外の文化を翻訳し、日本語化したという功績こそが、日本という国を存続させたという事なのだ。そして後世に、日本という国の持つポテンシャルを周囲の国に強烈にアピールするきかっけを作ったのだ。

 

それは結果的に、日本語という母語に誇りを持てた、という良い結果も生み出した。これまで世界に対して日本のブランド化を成功させてきたのは、決して、英語圏域に隷従してきたのでも、または英語という言語に一方的に迎合してきたからでもない。それは、日本語という母語の威信と確信が、過去の体験を通して、大きく確立され、自信を持って行使されてきたからだ。

 

また、国外の商品に日本語を記す事を可能にさせたのも、日本語の持つブランド力の他ないであろう。このように自国の母語に自信と誇りを持てる、これこそが本当の自国の持つ秘めたるパワーなのではないか。母語への威信は一国の活力に繋がる、それは、文化の魅力、はたまた経済の力でもそうである。グローバリゼーションによって、世界市場は活性化するだろうが、とどのつまりグローバリズムでの成功こそは、相手国と対等に渡り合える程の誇りを、母語を基軸に、強く確信出来ているという事の裏返しではないか。

 

経済的な自信は、誰よりも英語を話せるという優越感の中ではなく、なによりも母語を持っているという誇りの中にこそ、あるべきである。このような事は、過去、幾度の略奪と奪還を経てきた、歴史が証明している史実である。

 

それこそ、英語を話せるようになった事に優越を憶えるのではなく、日本語にこそ誇りを持つべきだという論の論拠である。学校教育での英語履修も大切だが、それに付随して、日本語という母語に誇りを感じる事のできる教育もまた必須であると、思われる。

介護保険制度の限界を考えてみる 〜社会福祉、および社会主義の終焉〜

http://linkis.com/RtiPh

 安倍政権もくろむ「要介護1,2外し」で介護破産に現実味 【日刊ゲンダイ】 2016年3月5日

 

今はこういう取り組みがある一方で、定年退職したお年寄りが担ってる、もっとアバウトな仕組みのより安い家事代行サービスもあるんだよね。また、そういうお年寄りの中には、元職人みたいな人も居るようで、サービスもすごくリーズナブルらしいね。植木の手入れとか、DIY的なちょっとした軽作業にも、こういう職人さんが居ると助かるよね。

 

これは、退職したお年寄りにとっても、老後のささやかな仕事になる訳だし、またサービスを受ける利用者の方も、ほぼ同世代という事で、フランクに頼みやすいというメリットもあるようなんだよね... また歳が近いとそれだけ会話も弾むようなんです。しかも介護を受けたいと思っている人の中には、たんに話し相手になって欲しいとか、軽く掃除して欲しいとかね、別に保険制度通さんでも良いやん? みたいな小さなものが多いんだよ。

 

また実際みやすけが介護してて、それって介護保険に適応するの? と疑問符が浮かぶものもあるもんね。でも、こういう代行サービスは、めんどうな手続きも必要ないし、また色々細かく機転も効かせられるだろうから、そっちの方が良いケースもあるんだよ。たぶん、思っているよりかもはるかに多くね。

 

でも巷では、この手の話に批判も多いよね。弱者を介護保険制度から排除するな! みたいなね。けど、みやすけ的には、お堅い制度で、いつまでも窮屈にサービスを受けるよりかも、グレーゾーンはどんどん介護保険から外してしまった方が、サービスを受ける方は、むしろ勝手が良かったりするんだよ。

 

今、政策しなければならないのは、制度から外れてしまってから、再びどこかで支援してくれる受け皿を作る事よ。だからNPO法人みたいな、またそれよりもよりアバウトな法人をもっと充実させて、柔軟に広く支援できるような仕組みを、いろいろ作れたらなと思う次第なのですよ。

 

しかし批判する人の中には、かつて日本政府が、社会主義的な福祉社会を目指しててみたいな記憶があるんだろうね。つまり人は社会が見るべき、その元締めに国があるべきだと。けど、今はサービスのニーズも多様化してて制度化こそが追いついていない。そんな現状の最中で、とどのつまりは「社会福祉」という理念が、成り立っていないという事なんです。そもそも本質的にそんなのが成り立つはずもないのですよ。特に介護を必要とする人口が最も多い今の時代はね。

 

むしろ介護保険制度みたいな国の制度に固執してた方が、排除される人は多くなるんだよ。逆説的にね。だからこの手の批判は、どこか間違ってるんです。それに一億全てを保険でまかなおうとする発想が、そもそも理念先行型で古い。それなら一部でも良いから、あやふやなグレーゾーンは保険制度から省いた方が良いんです。その方が多様なニーズにはずっと合わせやすい。

 

そう考えれば、ここで足りないと気づくのは、人員でも、お金でもないんですよ。人員も充分に居るし、お金も保険でまかなおうという事をしなければ足りないという事にはならない。つまりそれは何か? そうです、圧倒的に、その後の受け皿の方なんですよ。

 

そもそもね、批判してる人がイメージしてるような社会主義は終わりなんですよ。ましてや社会福祉なんてものは以ての外! これは今の経済もそうだけど、国があれこれちょっかい出して、全体をコントロールする時代は終わってるんですよ。いつまでも、ケインズ万歳では居られないんだよね。これは世の移り変わりで、いずれそうしなければならないんです。なのでみやすけは、介護保険制度の一部解体は万歳よ!

選挙の投票率は高ければ良いのか? 〜ノンポリシーの票が政治を空虚にする〜

今回も、あっさりと自民党が圧勝しましたね。これは大抵の人たちにとっては、大方予測済みだった筈です。そしてここで、みやすけは感じた事がありました。これは過去の選挙でも、また、特に今回の選挙の結果を受けてもそうだと確信出来ることがあります。それは、「なんでもかんでも、みんなが無闇に投票してはいけないのだ! 」という事です。結論を先に言えば、こういう大量のノンポリシーの票が投じられる事で、本当に困ってる人の声を薄くするのです。それはどういう事か? 以下、解りやすいように詳述してみましょう。

 

そもそも政治とは何でしょう? それは万人が自称インテリを気取る事なのでしょうか? 様々な意見があると思いますが、よく考えてみましょう。やれ一般意志? 自律した個人? 挙句の果ての理性的な主体? 政治学の世界には、このような用語がたくさんありますよね。しかしこのような、ピュアな概念を用いて、本当に現実の政治が可能なのでしょうか? そうですね、これらは常識的に考えて、この世にはありえない代物ばかりなのです。ましてや、このような概念を満遍なく備え合わせた完璧政治人間、そんな存在など、この世界には居ません。そう、それが存在する事、それこそまったくあり得ないのです。そのようなムリな概念を礎にして、現代の政治的理念はあります。そう、現代の政治は、こうした虚構の上に作られている訳なのです。

 

本質的に「政治」とは、本当に困った人の為にあるべきなのです。少なくてもみやすけはそう思います。誰彼にも誠実な政治、そしてみんなの政治とは、言葉の節回しでは美しいのですが、果たして本当にそういう理念の美しさだけで、政治を創っても良いものなのでしょうか? みんなの政治、そういう理念はある意味では、もっともなのですが、そういう言葉は、本当に大切な部分を切り落とす事にもなり得ます。その問題の核心にこそ、政治的にノンポリシーな存在と、深く関係する訳なのです。

 

とどのつまり今回の選挙では、このノンポリシーの票こそが、困っている少数の人達の掛け替えのない一票を、いかに稀釈してしまったのかが、はっきりと見えたような気がしました。今回も自民党が圧勝しましたね。これは半ば予想通りの結果でした。しかし、今回の自民党の圧勝とはどういう意味なのでしょうか? そうです、これを言い換えれば、それは生活がそこそこ安定していて、将来に対して、それなりに不安もない人達の大成なのだという事を、如実に表しているのではないか。そう思います。

 

しかし、考えてもみてください。そもそも今の生活にある程度満足してますみたいな人が、政治的に主張する事は必要なのでしょうか? 決して先行きも不安定ではなく、かつそれなりに生活の満足度も高い彼らにです。いいえそんな彼らには、政治的に主張する必要はないと、みやすけは思っています。

 

生活がそこそこでも安定している人たち、そんな彼らが必要とするものこそ、それはせいぜい「現状の維持」なのだという事が推測される訳です。そんな彼らは変化を嫌うでしょう。自分の立場が危うくなる可能性を見越してまで、ムリに変化を求める事はしないと思うのです。また、これが本当なのだとすれば、そういう人たちはどこに投票するでしょうか? そうですね、なんとなしに自民党に入れる事でしょう。なぜなら、これまでの日本社会が、ずっとそうだったからです。

 

いわば自民党とは安定の象徴みたいな存在なのです。それは戦後の日本の歴史そのものだからです。あらゆる日本の歴史的事件も政策も、また良いも悪いも、そのほぼ全てを歴任されてきた安心できる唯一の政党、それが自民党なのです。そういう今の世の中が自民党を求める動機こそ、そこに日本国民の安定志向が表れているのだと思います。

 

こういう事からも改めて解るように、みんなで創る政治とは、そもそも幻想なのです。みんなが合意する清き政治とは、かつての共産主義国家、社会主義国家でもありえませんでした。たとえそれが誰かの為の政治であるなら、それは誰の声なのかを明確にする必要があります。しかしそれには、投票率が高いという事、それだけでは何も判りはしませんね。むしろ、得票数の高低は、必要を訴える少数の声のボリュームと反比例するようにも見えます。

 

でも、投票率が高ければ高いという事、それは政治がよりよく機能している証拠だ。そういう人たちが、巷には居ます。しかし彼らの言う事は、果たして本当なのでしょうか? みやすけ個人が現状を見る限り、そんな事は、あんまり無いと言えそうです。

 

投票率とは、いわばその選挙に国民が参加した度合いを示す指数ですね。だから、高ければそれだけ政治がより良く機能しているんだ、こう分析するのはもっともに見える話です。しかし、その投じられた一票はしっかりと吟味された上のものなのでしょうか? さてそれは本当にそうでしょうか? いいえ恐らくは、ほとんどの票がそうではないと思います。これは自分の投票を考えてみれば解るのではないでしょうか? あなたはきちんと、その一票を吟味していますか?

 

またそれは毎回毎回、選挙がある度に自民党が圧勝する場面を見れば、一目瞭然です。国民の大方は変化ではなく、現状維持を求めている。恐らく、それを求めるのは、別に現状に窮しているからではなく、なんとなしに安定を感じているからです。その象徴こそが、自民党の度々の圧勝なのだと思う次第なのです。

 

このように政治とは、特に日本の場合は、生活が安定して、普段そんなに不満が無い人は、自民党に入れる。労働問題でこまねいている人は、共産党社民党に入れる。また、思想的にリベラルな人達は、リベラルな政党に入れる。これは当たり前の傾向なのです。政党に投票するなんてものは、そういうものなのです。

 

しかし、生活が安定していて、それほど不満がない人の票は、そんなに必要でしょうか? そういう人たちは毎回、現状維持の為に自民党に入れるでしょう。だから、いつでも自民党が圧勝するのです。それは生活に困っている人よりかも、それなりに満足している人の方が多いという事を反映しているのです。これが日本の現状なのです。しかしこれでは、現状に窮している人たちの声が届く事は、未来永劫訪れないままでしょう。それこそ彼らがマイノリティーである所以があります。

 

しかもこの推測が正しいのであれば、日本の保守とは、たかがそんなもんだという事です。空気というか、場の雰囲気がそうだから、または、今の生活が安定してしてるから、現状維持に直向きになる。ついでに懐古に浸って日本再生とか言ってみたりと、もうめちゃくちゃですね。これらは、保守というよりかは、お年寄りとかが昔を懐かしんで、想い出話に花を咲かせる、そんな程度のものなのでしょう。その風流さにたまたま政治が絡んでいる、だから周囲からは破茶滅茶に見える。

 

しかもかつては、国防の事も相当マスコミからツッコミを入れらてはいたけど、今回はそれさえも争点にならなかった。どとのつまり今回は「何の為? 」とも思えるのもさながら、実は「一体誰の為? 」という部分も相当判らない、そういう選挙だったと思います。

 

しかも今回からは、18歳からの投票が可能となりました。しかし、その約半数の票が、自民党へ流れてしまったようですね。それは公約がどうのこうの、政策がどうのこうのという模索の結果ではなく、なんとなく皆んなこうしてるから、取り敢えず空気で入れといた感が見事に出た結果となりましたね。やっぱり自民党は、こういう部分で得票数を得るのがすごく巧い、そう感心してしまいました。

 

 

18歳と19歳の有権者 出口調査の結果 [NHK NEWS WEB]

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160710/k10010589981000.html

現行憲法の国民に対する義務を問う 〜体罰は是か非か?〜 No.2

では、この問題をもっと大きなフィールドに拡張した場合では、どのように解釈できるでしょうか? 現在、日本国憲法には、国民の三大義務の一つで「教育を受けさせる義務」という文言が明記されていますね。そもそも事の発端となった学校制度は、明治に発布された教育勅語からその源流があります。それは富国強兵、殖産興業、と名を打って中世江戸の閉鎖的な小国から、近代資本主義国家として趨勢を果たすために起こした、明治の政府による政策です。国をイケイケに発展させて、ムキムキに強くする。教育とは、このような政略の一環として樹立したものなのです。そしてこの背景には、当時の国際社会の情勢が深く関わっていました。

 

日本国が明治維新を果たした当時の国際社会の情勢とは、植民地支配や帝国主義などが趨勢を得ていた時代です。かつてペリーが、江戸湾浦賀に入港したのも、当時のアメリカの政略として新マーケットを開拓する為に、未開国だった日本を開国させたいという思惑があったとされています。当時のマーケット開拓というのは、いわゆる土地の独占です。当時のマーケティングの論理は、他所の土地を独占して、その土地から様々な物を搾取する事を意味していました。

 

当時は、金品が増えると、国が豊かになるという理屈がまかり通っていた時代です。だからその外貨や物を求めて、時の列強国は、各国の土地を支配し回っていたのです。これを俗に植民地主義と言います。そして、金品が増える事で国が繁栄して行くという思想、これを重商主義と言いますね。

 

そして、その頃の植民地主義重商主義の猛威が、各小国に吹き荒れる中で、ほとほと開国を果たした当時の日本は、必然的に、富国と強兵、そして産業を発達させる必要性に迫られた訳なのです。すべては、日本という国のメンツと伝統を守るための政策だった訳です。そう、列強国から伝統という財産と身を守る為に。つまり本当の意味での教育というのは、当時弱小であった日本が、大日本帝國として富国と強兵、そしてそれに伴う一国の繁栄を目指した中での政策だった訳なのです。またそれらは、植民地支配からの防衛という意味合いも非常に強いものでした。つまり当時の教育という目的には、国を強くし繁栄させて、敵国から防衛するという明確な動機が存在していたのです。

 

ところが、現代ではどうでしょう? 現行の憲法にもこの「教育を受けさせる義務」は明記されていますね。でも、現代にとっての義務とは、何ゆえの義務なのでしょうか? しかも「教育を受けさせる」とは、ちょっとよく分からない表現ですよね。「受けさせる」とは何か? 実はこれ、子どもが主語なのではないのです。では誰か? そう、この明文こそは、「親」の方に、向けられたものなのです。親に対して「子どもには教育を受けさせないとダメだ」と勧告している、そういう訳なのです。つまり子どもというのは教育を「受けさせられる」側なのです。

 

しかし現代では、このような義務も、富国強兵のためでも、殖産興業のためでもありえなくなっています。高度資本主義と化した現代にとって、このようなイケイケの政策は、もはや時代遅れなのです。かつてのように、みんながガンバれば国が成長する時代は、とうに失われています。むしろむやみに働けば、それだけ損をする、そういう時代なのです。しかし、現行の憲法に明記されている義務とは、大日本帝國憲法の明文をそのまま敷衍したものなのです。そう、このような義務の明記こそ、これは、時代遅れの象徴なのだという事です。なぜなら一国が無限に成長してムキムキに強くなる、そんな時代はとうに終焉に伏しているからです。

 

また現代の改憲論も、国防と人権の方に眼が一方的に向きがちなのですが、しかしこうした国民の義務に関する議論は全く見られませんよね。今の政府にとって、現行の憲法が不具合を招くものだとすれば、それはそのまま国民に向けられる義務も、また不具合を起こすものである筈です。

 

では国民に対する義務とは、実際一体何を目的としたものであるべきなのか? 大日本帝國憲法をそのまま敷衍した現行の憲法ではなくて、現代の風紀に沿った形の新たな憲法が必要なのではないか? それは決して国防論や人権だけではなく、もっと身近な事柄を規定しているものを。

 

それは「教育を受けさせる義務」を含めた三つの国民に対する義務も、またそうなのです。はて一体、現行の憲法に明記されているような主権とは、何に関しての主権なのか、また国民とは一体誰の事を指すのか、そういう様々な疑問の中で、果たすべき税制とは一体何を規定するものなのか、という事を真剣に考えなければならない時が、きっとこれからは来るでしょう。

 

それは日本という国のバグなのではなく、グローバリゼーションがドンドンと拡張していく、世界のあらゆる国が抱えている問題でもあるのです。それはかつての純血主義や、国粋主義では抑えきれない、世界のあらゆる国境を揺るがし得ない問題なのです。これまでの古い規定を変えていく、そのような議論が、今必要になってきているように感じています。もし仮に改憲をするのであれば、このような教育に関する義務、またその他、細かい箇所で不具合が生じている箇所もまた、改憲していくべきだと思われます。

そもそもの学校の意義とはなんだろう 〜体罰は是か非か?〜 No.1

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卒園時、各校区に振り割される時も、また入学式の時も、とうの子どもは訳も分からないままに、学校制度に馴染むための工程を進んで行きます。かつてのみやすけ自身もそうだったように、大人からは学校に行きたいか、行きたくないかの明瞭な説明も、一切無しに、全ての子どもが入学させられる訳ですよね。だから、学校に合わない子どもが出てくる事、それ自体は必然的な訳なのですよ。

 

子どもとの合意も何も無く、ただエスカレーターに乗るように通わされる訳ですからね。だからそこで足をすくめたり、拒否感情が芽生えるのはしょうがない側面もあるわけです。子どもは意味も無く反抗するのではありませんね。その問題行動には、何かしらの動機があるわけです。それは単なる若気の至りなのではありません。子どもには子どもなりのロジックと感情があります。彼らも人間ですから当たり前なのです。そのような背景を忘れたような大人が、まったく言う事を聞かない子どもが居て困っていると言う。だから言うことを聞かすためには、体罰は必要だと。そう言うわけなのです。

 

しかし、根っから学校に合わないような子どもが、教師の言う事を聞かないのは、至極当前です。なぜなら、はなから行きたくて登校してる訳じゃないからです。これは入学時に学校に行くか行かないかの選択権を一切与えず、一方的に登校させたのが第一の理由でしょう。だからそういう子どもが言う事を聞かないというのは、その子にとってのまっとうな意思表明なのだという訳です。このように思う事から、子どもに対して体罰をする、またはしても良いという風潮に、みやすけは疑問を投げかけようと思っています。

 

よく大人の方は、子どもは嫌でも学校には行かなければならない、ズル休みをしてはいけない、みんな我慢してるんだからと言いますよね。しかし、言うこと聞かなければ体罰やらなんやらするぞ、と子どもに何かとどやしつける、とうの大人の側も、働きたくもない職場は、さっさと見切りをつけるでしょう。嫌なことがあればすぐに逃げる、それが大人の世界なのです。そういう風にして大人たちは、普段逃げたりとか、ズルをしてる。そのクセ彼ら大人は、やたらと子どもに忍耐を押し付ける。はて、彼らの言う忍耐とはなんなのでしょうか?

 

その場所の居心地が悪けりゃ、居心地のイイ場所に移動する。これは動物の本能です。それをミスミスとやってのけるのが大人なのに、子どもには忍耐を強要する。これでは教育現場が狂うのは、当たり前です。まず大人が逃げ惑っている状況を、どう子どもに納得のいく説明ができるのか、これが荒れた教育現場を復活させる、一つの肝ではないでしょうか?

 

よって荒れた教室の秩序を回復するためには、普段の大人のズルを子どもに理解させることが、第一の近道なのだと思います。子どもは意外に、普段の大人の行動を正確に把握しているものです。だから子どもの感性を侮ってはいけません。子どもを本気で納得させるためには、まず大人側がその忍耐の鑑にならなければなりません。ただ自分の身だけを守るような大人に、子どもの瞳が輝くことは、まずありえません。

 

それに巷のコメンテーターたちは、学校の問題において、子どもたちの問題行動に関して、何かと心理学的な要因を貼り合わせて、ワラワラと語ったような気になっています。が、子どもが問題行動を起こすのも、単に、学校がつまらないか何かで、根本的に学校と肌が合わない、それだけなのだと思います。

 

しかしとうの大人であれば、会社に所属する場合でも、それは契約なので、嫌な事があればさっさと打ち切ろうとしますね。嫌だったら逃げる、それが大人になって通用する手段です。ではなぜ、それが子どもには許されないのか? 子どもに叱咤する大人は、無理やり言うことを聞かせようと、体罰を振るおうとしますね。でも、それと同じ事を大人がされたらどうでしょう? それを知った適当なライターがこれは人権問題だ、社会問題だと警告を発し回りますよね。仮にそれに火が着けば、社会総体の大問題扱いなんですね。しかしそれと同等の事が子どもになされても、その場合は、却って子ども本人の問題にされてしまう訳です。これは明らかにおかしいですよね。

 

「子どもが従わない、それは何故だろう? どうすれば従わせる事が出来るのか? そうだ体罰だ!」大抵の大人は、そう思う訳ですが、では、大人に対してこれと全く同じ事を行なえば、どうでしょうか? つまり出社を拒否したり、仕事を怠けているから、ムチで引っ叩いて体罰を与えよう。もしそう実際に敢行されればどうなるでしょうか? そうですよね、即メディアは、深刻な社会問題としてドラマ化して、その体罰をした人物は、各方面からバッシングされるでしょう。

 

しかし現在のように子どもになんの発言権も、決定権も与えず、ただ校則に従わせる。従わなければ、体罰という拳が降ってくる。子どもたちにこのように振るう行為、それこそは、動物を意のままに調教するのと基本的には同じ手法だと、みやすけは思っています。こちらの論理に従わないからムチを打つ、体罰とは半ばこういう理屈で行われていましたね。

 

現代の教育現場では、子どもが荒れているといわれて久しくなりました。しかしとうの教師はヘトヘトになってその場から逃げてしまいます。おかしいですよね。子どもが同じ行動に出れば、子どもの方が問題とされ、態度を矯正されるのに対して、教師の方は、これは社会問題だからと許される。共にまったく同じ行動でも、大人だからという理由で許されているのです。言うこと聞かん子どもを相手にするのはしんどいね、そう周りの同僚から慰撫される訳です。

 

そういう風に子どもを扱うこと自体、何らかの人権の侵害に抵触するのではないでしょうか。子どもへの一方的なヘイト、そのようにみやすけには見えてしまいます。教師はどんなに逃げても良いが、子どもは逃げてはいけない。子どもがしんどかったら教師は逃げても良いけど、しんどい教師からは、子どもは逃げてはダメだという訳です。このような歪みこそが、教育現場のしんどさを、更に歪曲化させているのでないでしょうか?

 

しかし巷には、あの時に体罰があったから今の自分が居るんだ、むしろあの時シバいてもらって大変に喜んでいると、このような事を言う大人がいますよね。でも、現代で問題になっている体罰とは、大怪我を負うものであったり、精神的に追い詰めるようなものまで、罰の範疇をはるかに超えるものが主に問題になっているのです。愛のために子どもは怪我をしても良い、それは大人のエゴです。そういう風にした方が、大人は楽だから、そうするのです。怪我を負わすこと、決してそれは愛ではありません、むしろ教えの怠慢なのです。

 

それでも、中には子どもの方が悪智慧を働かせて、教師を嘲笑っているというような、教師の話もあるようです。でも、よく考えてみましょう。もし仮にその子どもにとって学校が、教師をからかう事でしか居場所の意義を見出せていないのだとすれば、それは、子ども本人の過失よりかも、その「子どもにとっての学校問題」がある事になる訳ですよね。

 

それを放置した上で体罰を容認する。そうした所で、子どもの側の憤懣は、より陰湿な形で、どこかで噴出せざるをえなくなるでしょう。もしかしたら現代のイジメの構造も、このような歪みからの派生なのではないかと、みやすけは推測しています。この場合の体罰の容認とは、問題の核心に蓋をする形にとなるでしよう。

 

叩けば直る、こういう考えはとても危険が孕んでいます。子どもためと振り下ろす拳、それは子どもの事を想うのではなく、大人が楽したいがためのもののように見えてしまいます。「叩けば楽だから」これが体罰が問題であるという問題の核心をなしている、そんな気がしています。ただ楽したい、これではいつまで経っても人に教えを与える、良き教育者にはなれないままでしょう。

芸術と政治の関係について 〜フジロックSEALDs出演の批判によせて〜

そもそも音楽は政治的なものと密接なんだから、批判するのはおかしいとか、はたまた単なるSEALDs嫌いでしょ? とか色々まとめてる人がいるようですね。で、この議論の一連の流れを追って見ていますと、そうえいばかつて、プロレタリア文学と言われた小林多喜二の作品が、その色濃い政治的ニュアンスの為に、当時の論壇から、純粋な文学では無いと批判されていたのを、ふと思い出しました。

 

特に、Twitterでよくあがるように、政治と芸術は確かに不可分な関係を持っています。が、その作品が実際に、政治的意義を持って読者を、政治的に感化するものなのか、またそれでも純粋に文学として愉しまれるものなのかは全く違いますよね。例え、それらの作品が政治と不可分な関係を持ってしても、それが読者に、実際にどう伝わるのかはまた別の問題なのです。そこには厳然とした、個人の選り好みが反映されています。そう、政治的扇動に陶酔感を充したいのか、または、純粋な音楽を楽しみたいのか、というものにです。では、今回のフジロックイベントでは、そのどちらなのどうでしょうか?

 

例えば今回の話題で考えてみますと、音楽と政治はかつてから密接な関係を結んできたわけだから云々という批判も、一見当然の見解のように思われます。しかし、小林多喜二の文学のように、芸術と政治を混同したような作風が批判されるのは、昔からありました。

 

しかしその一方で、政治と芸術は不可分な関係だという人たちがいる。でも、そこに密接な関係があったからといって、それらが素直に受け入れられていたわけじゃない。だから小林多喜二の文学に、わざわざプロレタリア文学とまで名付けたわけです。つまり、これは政治的文学ですと自ら呼称して、純文学からわざわざ分離したのです。つまりこれは事実上の政治と芸術の棲み分けなのです。

 

このような歴史的な出来事にこそ、そこには政治的に扇動をしたいという書き手の思惑と、またその扇動に陶酔したいとする読者、また、それでも政治的なものとかではなくて、純粋な文学をたしなみたいとする読者が、少なくてもこれらの手で二分していた、という事実が現れているわけです。だからこの手の当然のように見える見解も、それは一面的なものでしかないわけです。

 

なので、今回のフジロックでのSEALDs出演の批判も、そういうかつての時代の風紀で判断すれば、あながち頓珍漢なものでもない事が解りますね。「音楽に政治を持ち込むな」これに似たような批判は昔からありました。

 

そんな人たちが言う、「芸術と政治は不可分なもの」これはその通りなのですが、その言葉だけで、まるで一個の方程式のようにして、あらゆる物事に当てはめようとするのは、その背後にある様々な歴史的な風紀を逃してしまう事になるでしょう。芸術と政治が不可分なものであるなら、そこに付随している批判もまた不可分なものです。つまり正しくは、「芸術と政治は不可分で、またそこに対する批判もまた不可分なものである」としなければならないでしょう。

 

また、その団体の扇動がいくら政治的に正当であっても、浴びる批判の度合いには相関しません。それがいくら正しくても、嫌いなものは嫌いなのです。そもそもこのような批判とは、「政治的」と冠が付いている事の拒絶なのです。つまり「政治的なもの」への嫌悪なのです。だからいくら時代の寵児といわれている正当な政治団体でも、そこに政治的という冠が付いている限り、それへの批判というのは、ある意味、歴史的な風紀の元に正当なものなのです。

 

特に音楽を純粋に楽しみたいとする人達にすれば、そのような場で政治的扇動をする団体が依拠するのは、さぞかし困惑するでしょう。音楽というのはいわば雰囲気を楽しむものです。だから、そこに少しでも異物めいたものを感じるのであれば、それは音楽である所以を失うことになるのでしょう。

 

それならいっそうの事、政治的音楽イベントと、音楽イベントとを棲み分けるのは如何でしょう? なんでもよそ様のコミュニティーにヅカヅカと押し寄せてどんちゃん騒ぎをするのは、そもそも礼儀ではありませんね。だからみやすけは、フジロックのような音楽イベントでも、政治的芸術と、純粋な芸術の棲み分けを提案します。それはかつて、小林多喜二の小説が、プロレタリア文学と名付けられて初めて、彼の文学の居場所を確保できたのと同じように。