読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

選挙の投票率は高ければ良いのか? 〜ノンポリシーの票が政治を空虚にする〜

今回も、あっさりと自民党が圧勝しましたね。これは大抵の人たちにとっては、大方予測済みだった筈です。そしてここで、みやすけは感じた事がありました。これは過去の選挙でも、また、特に今回の選挙の結果を受けてもそうだと確信出来ることがあります。それは、「なんでもかんでも、みんなが無闇に投票してはいけないのだ! 」という事です。結論を先に言えば、こういう大量のノンポリシーの票が投じられる事で、本当に困ってる人の声を薄くするのです。それはどういう事か? 以下、解りやすいように詳述してみましょう。

 

そもそも政治とは何でしょう? それは万人が自称インテリを気取る事なのでしょうか? 様々な意見があると思いますが、よく考えてみましょう。やれ一般意志? 自律した個人? 挙句の果ての理性的な主体? 政治学の世界には、このような用語がたくさんありますよね。しかしこのような、ピュアな概念を用いて、本当に現実の政治が可能なのでしょうか? そうですね、これらは常識的に考えて、この世にはありえない代物ばかりなのです。ましてや、このような概念を満遍なく備え合わせた完璧政治人間、そんな存在など、この世界には居ません。そう、それが存在する事、それこそまったくあり得ないのです。そのようなムリな概念を礎にして、現代の政治的理念はあります。そう、現代の政治は、こうした虚構の上に作られている訳なのです。

 

本質的に「政治」とは、本当に困った人の為にあるべきなのです。少なくてもみやすけはそう思います。誰彼にも誠実な政治、そしてみんなの政治とは、言葉の節回しでは美しいのですが、果たして本当にそういう理念の美しさだけで、政治を創っても良いものなのでしょうか? みんなの政治、そういう理念はある意味では、もっともなのですが、そういう言葉は、本当に大切な部分を切り落とす事にもなり得ます。その問題の核心にこそ、政治的にノンポリシーな存在と、深く関係する訳なのです。

 

とどのつまり今回の選挙では、このノンポリシーの票こそが、困っている少数の人達の掛け替えのない一票を、いかに稀釈してしまったのかが、はっきりと見えたような気がしました。今回も自民党が圧勝しましたね。これは半ば予想通りの結果でした。しかし、今回の自民党の圧勝とはどういう意味なのでしょうか? そうです、これを言い換えれば、それは生活がそこそこ安定していて、将来に対して、それなりに不安もない人達の大成なのだという事を、如実に表しているのではないか。そう思います。

 

しかし、考えてもみてください。そもそも今の生活にある程度満足してますみたいな人が、政治的に主張する事は必要なのでしょうか? 決して先行きも不安定ではなく、かつそれなりに生活の満足度も高い彼らにです。いいえそんな彼らには、政治的に主張する必要はないと、みやすけは思っています。

 

生活がそこそこでも安定している人たち、そんな彼らが必要とするものこそ、それはせいぜい「現状の維持」なのだという事が推測される訳です。そんな彼らは変化を嫌うでしょう。自分の立場が危うくなる可能性を見越してまで、ムリに変化を求める事はしないと思うのです。また、これが本当なのだとすれば、そういう人たちはどこに投票するでしょうか? そうですね、なんとなしに自民党に入れる事でしょう。なぜなら、これまでの日本社会が、ずっとそうだったからです。

 

いわば自民党とは安定の象徴みたいな存在なのです。それは戦後の日本の歴史そのものだからです。あらゆる日本の歴史的事件も政策も、また良いも悪いも、そのほぼ全てを歴任されてきた安心できる唯一の政党、それが自民党なのです。そういう今の世の中が自民党を求める動機こそ、そこに日本国民の安定志向が表れているのだと思います。

 

こういう事からも改めて解るように、みんなで創る政治とは、そもそも幻想なのです。みんなが合意する清き政治とは、かつての共産主義国家、社会主義国家でもありえませんでした。たとえそれが誰かの為の政治であるなら、それは誰の声なのかを明確にする必要があります。しかしそれには、投票率が高いという事、それだけでは何も判りはしませんね。むしろ、得票数の高低は、必要を訴える少数の声のボリュームと反比例するようにも見えます。

 

でも、投票率が高ければ高いという事、それは政治がよりよく機能している証拠だ。そういう人たちが、巷には居ます。しかし彼らの言う事は、果たして本当なのでしょうか? みやすけ個人が現状を見る限り、そんな事は、あんまり無いと言えそうです。

 

投票率とは、いわばその選挙に国民が参加した度合いを示す指数ですね。だから、高ければそれだけ政治がより良く機能しているんだ、こう分析するのはもっともに見える話です。しかし、その投じられた一票はしっかりと吟味された上のものなのでしょうか? さてそれは本当にそうでしょうか? いいえ恐らくは、ほとんどの票がそうではないと思います。これは自分の投票を考えてみれば解るのではないでしょうか? あなたはきちんと、その一票を吟味していますか?

 

またそれは毎回毎回、選挙がある度に自民党が圧勝する場面を見れば、一目瞭然です。国民の大方は変化ではなく、現状維持を求めている。恐らく、それを求めるのは、別に現状に窮しているからではなく、なんとなしに安定を感じているからです。その象徴こそが、自民党の度々の圧勝なのだと思う次第なのです。

 

このように政治とは、特に日本の場合は、生活が安定して、普段そんなに不満が無い人は、自民党に入れる。労働問題でこまねいている人は、共産党社民党に入れる。また、思想的にリベラルな人達は、リベラルな政党に入れる。これは当たり前の傾向なのです。政党に投票するなんてものは、そういうものなのです。

 

しかし、生活が安定していて、それほど不満がない人の票は、そんなに必要でしょうか? そういう人たちは毎回、現状維持の為に自民党に入れるでしょう。だから、いつでも自民党が圧勝するのです。それは生活に困っている人よりかも、それなりに満足している人の方が多いという事を反映しているのです。これが日本の現状なのです。しかしこれでは、現状に窮している人たちの声が届く事は、未来永劫訪れないままでしょう。それこそ彼らがマイノリティーである所以があります。

 

しかもこの推測が正しいのであれば、日本の保守とは、たかがそんなもんだという事です。空気というか、場の雰囲気がそうだから、または、今の生活が安定してしてるから、現状維持に直向きになる。ついでに懐古に浸って日本再生とか言ってみたりと、もうめちゃくちゃですね。これらは、保守というよりかは、お年寄りとかが昔を懐かしんで、想い出話に花を咲かせる、そんな程度のものなのでしょう。その風流さにたまたま政治が絡んでいる、だから周囲からは破茶滅茶に見える。

 

しかもかつては、国防の事も相当マスコミからツッコミを入れらてはいたけど、今回はそれさえも争点にならなかった。どとのつまり今回は「何の為? 」とも思えるのもさながら、実は「一体誰の為? 」という部分も相当判らない、そういう選挙だったと思います。

 

しかも今回からは、18歳からの投票が可能となりました。しかし、その約半数の票が、自民党へ流れてしまったようですね。それは公約がどうのこうの、政策がどうのこうのという模索の結果ではなく、なんとなく皆んなこうしてるから、取り敢えず空気で入れといた感が見事に出た結果となりましたね。やっぱり自民党は、こういう部分で得票数を得るのがすごく巧い、そう感心してしまいました。

 

 

18歳と19歳の有権者 出口調査の結果 [NHK NEWS WEB]

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160710/k10010589981000.html

現行憲法の国民に対する義務を問う 〜体罰は是か非か?〜 No.2

では、この問題をもっと大きなフィールドに拡張した場合では、どのように解釈できるでしょうか? 現在、日本国憲法には、国民の三大義務の一つで「教育を受けさせる義務」という文言が明記されていますね。そもそも事の発端となった学校制度は、明治に発布された教育勅語からその源流があります。それは富国強兵、殖産興業、と名を打って中世江戸の閉鎖的な小国から、近代資本主義国家として趨勢を果たすために起こした、明治の政府による政策です。国をイケイケに発展させて、ムキムキに強くする。教育とは、このような政略の一環として樹立したものなのです。そしてこの背景には、当時の国際社会の情勢が深く関わっていました。

 

日本国が明治維新を果たした当時の国際社会の情勢とは、植民地支配や帝国主義などが趨勢を得ていた時代です。かつてペリーが、江戸湾浦賀に入港したのも、当時のアメリカの政略として新マーケットを開拓する為に、未開国だった日本を開国させたいという思惑があったとされています。当時のマーケット開拓というのは、いわゆる土地の独占です。当時のマーケティングの論理は、他所の土地を独占して、その土地から様々な物を搾取する事を意味していました。

 

当時は、金品が増えると、国が豊かになるという理屈がまかり通っていた時代です。だからその外貨や物を求めて、時の列強国は、各国の土地を支配し回っていたのです。これを俗に植民地主義と言います。そして、金品が増える事で国が繁栄して行くという思想、これを重商主義と言いますね。

 

そして、その頃の植民地主義重商主義の猛威が、各小国に吹き荒れる中で、ほとほと開国を果たした当時の日本は、必然的に、富国と強兵、そして産業を発達させる必要性に迫られた訳なのです。すべては、日本という国のメンツと伝統を守るための政策だった訳です。そう、列強国から伝統という財産と身を守る為に。つまり本当の意味での教育というのは、当時弱小であった日本が、大日本帝國として富国と強兵、そしてそれに伴う一国の繁栄を目指した中での政策だった訳なのです。またそれらは、植民地支配からの防衛という意味合いも非常に強いものでした。つまり当時の教育という目的には、国を強くし繁栄させて、敵国から防衛するという明確な動機が存在していたのです。

 

ところが、現代ではどうでしょう? 現行の憲法にもこの「教育を受けさせる義務」は明記されていますね。でも、現代にとっての義務とは、何ゆえの義務なのでしょうか? しかも「教育を受けさせる」とは、ちょっとよく分からない表現ですよね。「受けさせる」とは何か? 実はこれ、子どもが主語なのではないのです。では誰か? そう、この明文こそは、「親」の方に、向けられたものなのです。親に対して「子どもには教育を受けさせないとダメだ」と勧告している、そういう訳なのです。つまり子どもというのは教育を「受けさせられる」側なのです。

 

しかし現代では、このような義務も、富国強兵のためでも、殖産興業のためでもありえなくなっています。高度資本主義と化した現代にとって、このようなイケイケの政策は、もはや時代遅れなのです。かつてのように、みんながガンバれば国が成長する時代は、とうに失われています。むしろむやみに働けば、それだけ損をする、そういう時代なのです。しかし、現行の憲法に明記されている義務とは、大日本帝國憲法の明文をそのまま敷衍したものなのです。そう、このような義務の明記こそ、これは、時代遅れの象徴なのだという事です。なぜなら一国が無限に成長してムキムキに強くなる、そんな時代はとうに終焉に伏しているからです。

 

また現代の改憲論も、国防と人権の方に眼が一方的に向きがちなのですが、しかしこうした国民の義務に関する議論は全く見られませんよね。今の政府にとって、現行の憲法が不具合を招くものだとすれば、それはそのまま国民に向けられる義務も、また不具合を起こすものである筈です。

 

では国民に対する義務とは、実際一体何を目的としたものであるべきなのか? 大日本帝國憲法をそのまま敷衍した現行の憲法ではなくて、現代の風紀に沿った形の新たな憲法が必要なのではないか? それは決して国防論や人権だけではなく、もっと身近な事柄を規定しているものを。

 

それは「教育を受けさせる義務」を含めた三つの国民に対する義務も、またそうなのです。はて一体、現行の憲法に明記されているような主権とは、何に関しての主権なのか、また国民とは一体誰の事を指すのか、そういう様々な疑問の中で、果たすべき税制とは一体何を規定するものなのか、という事を真剣に考えなければならない時が、きっとこれからは来るでしょう。

 

それは日本という国のバグなのではなく、グローバリゼーションがドンドンと拡張していく、世界のあらゆる国が抱えている問題でもあるのです。それはかつての純血主義や、国粋主義では抑えきれない、世界のあらゆる国境を揺るがし得ない問題なのです。これまでの古い規定を変えていく、そのような議論が、今必要になってきているように感じています。もし仮に改憲をするのであれば、このような教育に関する義務、またその他、細かい箇所で不具合が生じている箇所もまた、改憲していくべきだと思われます。

そもそもの学校の意義とはなんだろう 〜体罰は是か非か?〜 No.1

youtu.be

 

卒園時、各校区に振り割される時も、また入学式の時も、とうの子どもは訳も分からないままに、学校制度に馴染むための工程を進んで行きます。かつてのみやすけ自身もそうだったように、大人からは学校に行きたいか、行きたくないかの明瞭な説明も、一切無しに、全ての子どもが入学させられる訳ですよね。だから、学校に合わない子どもが出てくる事、それ自体は必然的な訳なのですよ。

 

子どもとの合意も何も無く、ただエスカレーターに乗るように通わされる訳ですからね。だからそこで足をすくめたり、拒否感情が芽生えるのはしょうがない側面もあるわけです。子どもは意味も無く反抗するのではありませんね。その問題行動には、何かしらの動機があるわけです。それは単なる若気の至りなのではありません。子どもには子どもなりのロジックと感情があります。彼らも人間ですから当たり前なのです。そのような背景を忘れたような大人が、まったく言う事を聞かない子どもが居て困っていると言う。だから言うことを聞かすためには、体罰は必要だと。そう言うわけなのです。

 

しかし、根っから学校に合わないような子どもが、教師の言う事を聞かないのは、至極当前です。なぜなら、はなから行きたくて登校してる訳じゃないからです。これは入学時に学校に行くか行かないかの選択権を一切与えず、一方的に登校させたのが第一の理由でしょう。だからそういう子どもが言う事を聞かないというのは、その子にとってのまっとうな意思表明なのだという訳です。このように思う事から、子どもに対して体罰をする、またはしても良いという風潮に、みやすけは疑問を投げかけようと思っています。

 

よく大人の方は、子どもは嫌でも学校には行かなければならない、ズル休みをしてはいけない、みんな我慢してるんだからと言いますよね。しかし、言うこと聞かなければ体罰やらなんやらするぞ、と子どもに何かとどやしつける、とうの大人の側も、働きたくもない職場は、さっさと見切りをつけるでしょう。嫌なことがあればすぐに逃げる、それが大人の世界なのです。そういう風にして大人たちは、普段逃げたりとか、ズルをしてる。そのクセ彼ら大人は、やたらと子どもに忍耐を押し付ける。はて、彼らの言う忍耐とはなんなのでしょうか?

 

その場所の居心地が悪けりゃ、居心地のイイ場所に移動する。これは動物の本能です。それをミスミスとやってのけるのが大人なのに、子どもには忍耐を強要する。これでは教育現場が狂うのは、当たり前です。まず大人が逃げ惑っている状況を、どう子どもに納得のいく説明ができるのか、これが荒れた教育現場を復活させる、一つの肝ではないでしょうか?

 

よって荒れた教室の秩序を回復するためには、普段の大人のズルを子どもに理解させることが、第一の近道なのだと思います。子どもは意外に、普段の大人の行動を正確に把握しているものです。だから子どもの感性を侮ってはいけません。子どもを本気で納得させるためには、まず大人側がその忍耐の鑑にならなければなりません。ただ自分の身だけを守るような大人に、子どもの瞳が輝くことは、まずありえません。

 

それに巷のコメンテーターたちは、学校の問題において、子どもたちの問題行動に関して、何かと心理学的な要因を貼り合わせて、ワラワラと語ったような気になっています。が、子どもが問題行動を起こすのも、単に、学校がつまらないか何かで、根本的に学校と肌が合わない、それだけなのだと思います。

 

しかしとうの大人であれば、会社に所属する場合でも、それは契約なので、嫌な事があればさっさと打ち切ろうとしますね。嫌だったら逃げる、それが大人になって通用する手段です。ではなぜ、それが子どもには許されないのか? 子どもに叱咤する大人は、無理やり言うことを聞かせようと、体罰を振るおうとしますね。でも、それと同じ事を大人がされたらどうでしょう? それを知った適当なライターがこれは人権問題だ、社会問題だと警告を発し回りますよね。仮にそれに火が着けば、社会総体の大問題扱いなんですね。しかしそれと同等の事が子どもになされても、その場合は、却って子ども本人の問題にされてしまう訳です。これは明らかにおかしいですよね。

 

「子どもが従わない、それは何故だろう? どうすれば従わせる事が出来るのか? そうだ体罰だ!」大抵の大人は、そう思う訳ですが、では、大人に対してこれと全く同じ事を行なえば、どうでしょうか? つまり出社を拒否したり、仕事を怠けているから、ムチで引っ叩いて体罰を与えよう。もしそう実際に敢行されればどうなるでしょうか? そうですよね、即メディアは、深刻な社会問題としてドラマ化して、その体罰をした人物は、各方面からバッシングされるでしょう。

 

しかし現在のように子どもになんの発言権も、決定権も与えず、ただ校則に従わせる。従わなければ、体罰という拳が降ってくる。子どもたちにこのように振るう行為、それこそは、動物を意のままに調教するのと基本的には同じ手法だと、みやすけは思っています。こちらの論理に従わないからムチを打つ、体罰とは半ばこういう理屈で行われていましたね。

 

現代の教育現場では、子どもが荒れているといわれて久しくなりました。しかしとうの教師はヘトヘトになってその場から逃げてしまいます。おかしいですよね。子どもが同じ行動に出れば、子どもの方が問題とされ、態度を矯正されるのに対して、教師の方は、これは社会問題だからと許される。共にまったく同じ行動でも、大人だからという理由で許されているのです。言うこと聞かん子どもを相手にするのはしんどいね、そう周りの同僚から慰撫される訳です。

 

そういう風に子どもを扱うこと自体、何らかの人権の侵害に抵触するのではないでしょうか。子どもへの一方的なヘイト、そのようにみやすけには見えてしまいます。教師はどんなに逃げても良いが、子どもは逃げてはいけない。子どもがしんどかったら教師は逃げても良いけど、しんどい教師からは、子どもは逃げてはダメだという訳です。このような歪みこそが、教育現場のしんどさを、更に歪曲化させているのでないでしょうか?

 

しかし巷には、あの時に体罰があったから今の自分が居るんだ、むしろあの時シバいてもらって大変に喜んでいると、このような事を言う大人がいますよね。でも、現代で問題になっている体罰とは、大怪我を負うものであったり、精神的に追い詰めるようなものまで、罰の範疇をはるかに超えるものが主に問題になっているのです。愛のために子どもは怪我をしても良い、それは大人のエゴです。そういう風にした方が、大人は楽だから、そうするのです。怪我を負わすこと、決してそれは愛ではありません、むしろ教えの怠慢なのです。

 

それでも、中には子どもの方が悪智慧を働かせて、教師を嘲笑っているというような、教師の話もあるようです。でも、よく考えてみましょう。もし仮にその子どもにとって学校が、教師をからかう事でしか居場所の意義を見出せていないのだとすれば、それは、子ども本人の過失よりかも、その「子どもにとっての学校問題」がある事になる訳ですよね。

 

それを放置した上で体罰を容認する。そうした所で、子どもの側の憤懣は、より陰湿な形で、どこかで噴出せざるをえなくなるでしょう。もしかしたら現代のイジメの構造も、このような歪みからの派生なのではないかと、みやすけは推測しています。この場合の体罰の容認とは、問題の核心に蓋をする形にとなるでしよう。

 

叩けば直る、こういう考えはとても危険が孕んでいます。子どもためと振り下ろす拳、それは子どもの事を想うのではなく、大人が楽したいがためのもののように見えてしまいます。「叩けば楽だから」これが体罰が問題であるという問題の核心をなしている、そんな気がしています。ただ楽したい、これではいつまで経っても人に教えを与える、良き教育者にはなれないままでしょう。

芸術と政治の関係について 〜フジロックSEALDs出演の批判によせて〜

そもそも音楽は政治的なものと密接なんだから、批判するのはおかしいとか、はたまた単なるSEALDs嫌いでしょ? とか色々まとめてる人がいるようですね。で、この議論の一連の流れを追って見ていますと、そうえいばかつて、プロレタリア文学と言われた小林多喜二の作品が、その色濃い政治的ニュアンスの為に、当時の論壇から、純粋な文学では無いと批判されていたのを、ふと思い出しました。

 

特に、Twitterでよくあがるように、政治と芸術は確かに不可分な関係を持っています。が、その作品が実際に、政治的意義を持って読者を、政治的に感化するものなのか、またそれでも純粋に文学として愉しまれるものなのかは全く違いますよね。例え、それらの作品が政治と不可分な関係を持ってしても、それが読者に、実際にどう伝わるのかはまた別の問題なのです。そこには厳然とした、個人の選り好みが反映されています。そう、政治的扇動に陶酔感を充したいのか、または、純粋な音楽を楽しみたいのか、というものにです。では、今回のフジロックイベントでは、そのどちらなのどうでしょうか?

 

例えば今回の話題で考えてみますと、音楽と政治はかつてから密接な関係を結んできたわけだから云々という批判も、一見当然の見解のように思われます。しかし、小林多喜二の文学のように、芸術と政治を混同したような作風が批判されるのは、昔からありました。

 

しかしその一方で、政治と芸術は不可分な関係だという人たちがいる。でも、そこに密接な関係があったからといって、それらが素直に受け入れられていたわけじゃない。だから小林多喜二の文学に、わざわざプロレタリア文学とまで名付けたわけです。つまり、これは政治的文学ですと自ら呼称して、純文学からわざわざ分離したのです。つまりこれは事実上の政治と芸術の棲み分けなのです。

 

このような歴史的な出来事にこそ、そこには政治的に扇動をしたいという書き手の思惑と、またその扇動に陶酔したいとする読者、また、それでも政治的なものとかではなくて、純粋な文学をたしなみたいとする読者が、少なくてもこれらの手で二分していた、という事実が現れているわけです。だからこの手の当然のように見える見解も、それは一面的なものでしかないわけです。

 

なので、今回のフジロックでのSEALDs出演の批判も、そういうかつての時代の風紀で判断すれば、あながち頓珍漢なものでもない事が解りますね。「音楽に政治を持ち込むな」これに似たような批判は昔からありました。

 

そんな人たちが言う、「芸術と政治は不可分なもの」これはその通りなのですが、その言葉だけで、まるで一個の方程式のようにして、あらゆる物事に当てはめようとするのは、その背後にある様々な歴史的な風紀を逃してしまう事になるでしょう。芸術と政治が不可分なものであるなら、そこに付随している批判もまた不可分なものです。つまり正しくは、「芸術と政治は不可分で、またそこに対する批判もまた不可分なものである」としなければならないでしょう。

 

また、その団体の扇動がいくら政治的に正当であっても、浴びる批判の度合いには相関しません。それがいくら正しくても、嫌いなものは嫌いなのです。そもそもこのような批判とは、「政治的」と冠が付いている事の拒絶なのです。つまり「政治的なもの」への嫌悪なのです。だからいくら時代の寵児といわれている正当な政治団体でも、そこに政治的という冠が付いている限り、それへの批判というのは、ある意味、歴史的な風紀の元に正当なものなのです。

 

特に音楽を純粋に楽しみたいとする人達にすれば、そのような場で政治的扇動をする団体が依拠するのは、さぞかし困惑するでしょう。音楽というのはいわば雰囲気を楽しむものです。だから、そこに少しでも異物めいたものを感じるのであれば、それは音楽である所以を失うことになるのでしょう。

 

それならいっそうの事、政治的音楽イベントと、音楽イベントとを棲み分けるのは如何でしょう? なんでもよそ様のコミュニティーにヅカヅカと押し寄せてどんちゃん騒ぎをするのは、そもそも礼儀ではありませんね。だからみやすけは、フジロックのような音楽イベントでも、政治的芸術と、純粋な芸術の棲み分けを提案します。それはかつて、小林多喜二の小説が、プロレタリア文学と名付けられて初めて、彼の文学の居場所を確保できたのと同じように。

大学の英語公用語化は、なぜ問題なのか?

本稿は、大幅な改訂をしたため、以下のアドレスにお引越ししました。よろしくお願いします。

 

グローバリズムを生き残る 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか? No.1

http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2016/10/15/075332

 

日本の誇りとしての漢字熟語 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか?No.2

http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2016/10/15/075954

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.3

ここを一つのポイントに、これから先を詳述してみましょう。社会的に対人関係が拡張した際に、その人の持つべくTPOやペルソナの必然性が増していきます。また、その規模に比例して、ストックすべき種類も多くなっていきます。つまり、まとうべく衣服がそれに応じて分厚くなっていくという訳です。しかし、だんだんと分厚くなって重くなる一方の衣服は、その根底にある生の皮膚をどんどんと圧迫していきます。そうなればその圧力によってグイグイと首を締めるように、息苦しくなってしまいます。そして仮にその状態が続けば、精神衛生に支障を来すでしょう。これは、本当の自分というのが、何が何だか分からなくなる、という心境に陥りかねないという事です。

 

そして、今の説明は物理的解釈としても有効なのですが、実は心理的釈明としても有用なのです。このように、それでも分厚くなるのが止まらない仮面は、とうとう自分の実の姿さえもあやふやにしてしまうことでしょう。自分を着飾るあまり、本当の自分を見失ってしまう、これこそ、ペルソナが過剰に作用する際になり得る、最悪のシナリオなのです。

 

しかしこの事は、まことに逆説的なのですが、むしろ、この人間の住む世界が、社会的に成熟しているのだとも言えるのです。しかしそれでも、それに伴い様々な仮面が、皮膚本来の役割りを超越して、常に四方八方に、自分という個性を演じ続けなければならない、という状況をも生み出しているという事でもあります。このように、社会生活を営む為に、本当の自分を押し殺さなければならない、という弊害を、現代の過剰さは、また生み出しているのです。

 

最初に紹介した通り、生物学的に皮膚とは、外界から身を護るためにある臓器です。しかし人間は、物理的環境に対処する為の皮膚という臓器を、さらに進化させなければなりませんでした。それは、人間の社会性の発達によるものが、その第一の動機だと考えられます。自然界で、または人間同士の社会生活で生き残る為に、その皮膚を更に発達させる必要があった。やがてそれをより深化させ、とうとう、より観念的な皮膚へと、進化を遂げる事となったのです。そして、その動向は必然的に「衣服」へと、その意義を向けざるを得なかったのです。そう、進化の過程で人間は、自らの意思で新たな皮膚をまとったのです。すべては社会という集団を維持する為にです。そう、そのようにして人間が自然界で生き残って行くための術を会得しようとしたのです。

 

人間というのは野生の動物のように、それ単独での生存は不可能です。だから大勢で群れて、人という種を護ろうとするのです。しかも、ごく少数の群れでは、人間の持つかつての危機本能は満足しなかったのです。一つの群れが、無数に集まって集落を作り、やがてそれらが村になり町となり、現代では国またそれ以上のグローバルの単位にまで、社会性が拡張されてきました。これらすべての動向は、人間が生き残る為の術なのです。

 

しかし、今お話ししたように、危機回避の本能が人間社会の本質なのだとすれば、特に現代的では、未だにその恐怖心だけが、無尽蔵に膨れ上がり、とうとう社会という存在が脅威となるまでに、膨大になり過ぎたのではないか。そう現在では、もはや生きる事の目的自体が過剰なのです。その過剰さの中では、必然的にふれあう人間の数も甚大に増えて、とうの社会もより複雑に怪奇化します。そして、それだけの領域を担うための駆使すべきペルソナやTPOも、それ相応の数が必要となったのです。しかし、そこには必然的に自己との葛藤が生じます。それは自己と仮面との間に、決定的なズレを起こすからです。おそらくは、ここにこそ大方の現代人の葛藤が表現されているような気がします。

 

そのような過剰な社会では、必然的にそれらの重くなった衣服を、自主的に脱ぐ行程が必要になります。その一つの方法が、自分を「表現する」事なのです。そう、身体で表現する事によって剥き出しの自分をさらけ出す。それはこれまでに何重にも重なり、半ば石化してしまった皮膚が、かつての感覚を呼び覚ますための療法なのです。なので表現者の方々は、この時代だからこその大切な役目を負うているのです。それは人間の進化により、その社会性が肥大化して、ついには歯止めが効かなくなった事による、人間進化の歴史上の必然なのです。

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.2

一方、この世間には自分を「表現している」人たちがいます。表現者たちは、自分をどんどんとさらけ出しています。では、ここでいう所の表現とは、一体何の言い回しなのでしょうか? それは、自分の裡に秘めたる「肉」の部分を観客にさらけ出すという事なんだと思います。普段、人間がまとっている幾つもの皮膚を脱ぎ捨てて、その内に秘めたる肉の部分を披露する。その果敢な姿こそ、彼らが内なるものの表現者であるという所以なんだと言えそうです。なぜなら「表現」とは、そう読んで字のごとく表に現わすと書きますが、その表に現れたるものこそ、普段、人が皮膚の内側に隠している「肉」の部分なのではないか。みやすけは、そう思っています。

 

でも最初に言ったように、人はさらけ出された「生の肉」の部分に、普通は触れようとしません。またその傷口が大きく開いていればいる程、またそれらが生々しいものであればある程に、その状態に比例して嫌悪感も甚大になります。ジュクジュクとした生の肉がさらけ出された姿。その状態を、大抵の人はエグいと感じる。またときには気味が悪いからと、吐き気を感じたりもするでしょう。しかし表現者は、あえてそれを衆目の面前にさらけ出します。

 

このように自分の内側の肉を、しかも生でさらけ出すということ。それはある人にとっては、エゲツのないものを見せつけられるという事です。だからそこには表現する側の苦痛や、観る側の苦悶が生じるのでしょう。これはいえば肉と肉との対峙です。まただからこそ、そこにしかない美しさが表象されてもいるのです。こうした生の肉と肉との対峙。そしてそれによって発生する美は、ある種の陶酔感をもたらします。表現の裡の美しさとは、ある意味こうした状態と対をなす所があります。ジュクジュクしい肉との生の対峙、そしてその最中に、ある種の恍惚が走り抜けます。この一連の生々しい身体の反応にこそ、表現の美しさは生まれるのです。

 

そう、美を堪能する為には、そのジュクジュクとした生々しい肉と肉の対峙が必要なのです。しかし、そういう生の表現だからこそ、それを堪能するだけの、観る側の表出もまた要求されるのです。それは、互いに普段皮膚の内側に秘めている肉をさらけ出し合うという事です。そのような表現者の裡に秘めている部分を衆目にさらけ出し、またそれに対峙して、観る側も共鳴してさらけ出すからこそ、そこにある人はより深く、またそれ以上の嫌悪感に襲われもするのです。誰しも、普段裸になる事に、羞恥心を抱くものです。このように衣服を人前で脱ぐ事もはばかられるのに、それに対して表現では、その更に内側をもさらけ出す事が要求される訳なのです。なので、表現に対して何らかの嫌悪を感じるのは、ある意味では真っ当なのです。その拒否の感情は、まことに生物的な本能です。つまりこのような感情も、皮膚の内部を侵されない為の、一種の防衛反応と言えるでしょう。

 

しかし、肉体が皮膚に覆われている状態こそは、日常なのです。大方は、それが当たり前だと思っている。つまり、皮膚が剥がれた姿は非日常な訳なのです。確かにそこら辺で、皮膚の剥がれた人は居ません。ましてや、衣服をまとっていないとなれば、法律に抵触する事態にもなり得ます。このように、何かをまとっていない人間は、社会で関係を作る事も出来ません。そうなれば必ずや、排除や嫌悪の対象になります。ましてや時に、存亡を左右する危機に陥る事にもなり得ます。基本的に人間とは、社会という大きな枠を集団で構成して、そこで関係性を築いて生活する動物であります。そして、その社会の内部でも人間は、先ほど書いたように、その場のTPOをわきまえた衣服をまといます。そうする事で相手に安心感を与えようとします。こうして、見ず知らずの他者と関係を築く為に、自分は脅威ではないという事をアピールする必要があるのです。そしてまた、これと同じような動向は、心理の面でも観られるのです。

 

大方の人間というのは、会う相手によって、自分の表出の度合いを微妙に変化させています。それは時に言葉使いであったり、また態度で示したりと、色々とあります。むろんその中には、衣服も含まれています。そしてそのような数多ある皮膚の代役を果たすものが、人間の個性を演出していると、先ほどにも書きました。一応確認なのですが、ここでいう個性とは、つまり演じるものという事です。なので厳然としたものではありません。会う相手によって、いかようにも変化していくものというニュアンスこそ、ここでいう個性です。そしてそれは数種のストックが必要になります。そのストックを駆使し、面々に応じて使い分け、それぞれに対面していくのです。

 

しかし、人間もまた「肉体」に宿る存在です。幾ら社会的動物とはいえ、そこには、おのずと肉体と対峙しなければならない場面がポツポツと現れるわけです。例えば食欲。人間は食物をこの体内に取り入れて、なおかつ吸収しなければなりません。そして要らないものを排出しなければならない訳なのです。

 

そして睡眠欲です。人間の肉体は、そのままでは保ちません。四六時中、肉体を稼働したままでそれを維持するのは、不可能なのです。なので定期的にメンテナンスにかけなければならないのです。日頃、この肉体には様々な情報が外部から飛来してきます。それらは刺激となって体内のあらゆる場所に記憶となります。それらの大半は蓄積されるのですが、その量は膨大なものです。だからその時々に応じて休眠して、その情報を処理しなければなりません。その一環に睡眠があるのです。外界から飛来する情報は、基本的に雑然としたものです。そうノイズがほとんどなのです。

 

そしてその雑然さが身体の中で膨大になると、人間は生きる事が不可能になります。そもそも肉体とは、本質的に組織です。組織というのは、ある程度の秩序と統制が必要なのですが、ノイズは四六時中外界から飛来してきます。だから身体はそのノイズをなるべくキャンセルして調整しようとします。そのメンテナンスを一任するのが睡眠なのです。

 

このように身体は、上に挙げたようなバイアスを、幾つも持って生きています。しかしそれらが必要とするのは肉体レベルのものだけではありません。例えばペルソナの問題です。ペルソナとは仮面を意味する言葉です。心理学的には相手と関係するために自分を装う、そのためのツールといえるでしょうか。人は相手に安心感を促す為の一貫として、このペルソナを使います。またこのペルソナは相手との距離間によって強弱があります。親しい人には、ペルソナの割合は弱くなりますが、対人関係が社会的になれば、それだけペルソナの役割りも大きくなります。それは多数の人間と関わるか、そうでないかとの違いです。つまりその人の社会的な管轄が拡がれば広がるほどに、そのペルソナの役割りもより重要になってきます。